ACECOMBATSISTER
shattered prinsess
エースコンバットシスター シャッタードプリンセス
ミッション16 Silent Sorrow いつだって、最後に立ち塞がるのは人間の意思だ。 自然や機械システム、あるいは時間なんてものは、それに比べればどうということはない。しかるべき準備と十分に計画を練れば容易にねじ伏せることができる。全く大したことはない。 しかし、それすら超えて自分の行く手を阻むものがあるとすれば、それは人の意思に他ならないと確信していた。 そしてそれが今、目前に起立していた。起立というには、彼女の細身の体はあまりにも華奢で、構えた拳銃を支えるだけでやっとの有様だったが。 「行かないでください、少佐」 何度目か分らない言葉を彼女は繰り返した。 そして、その答えは何度目でも同じだった。 「・・銃を渡すんだ」 「イヤです!」 彼女は力の限り首を振って、涙を乾いたコンクリートの誘導路に振りまいた。 彼女を無視するのは容易い。拳銃1丁程度で巨大な戦闘機を止めることなどできるわけがない。けれど無視したところで彼女は決して諦めたりはしないだろう。エンジンコンプレッサーに飛び込んででも彼女は離陸を阻止するに違いなかった。 第156戦術戦闘航空団、嘗ては日本最強と謳われた黄色中隊は数千の対空砲火でもなく、あるいは数百の敵機でもなく、たった一人の少女によって離陸を阻まれていた。 「どうした、黄色1。エンジントラブルか?」 管制塔からでは見えないのだろう、その声は暢気そのものだった。哨戒飛行という平常どおりのルーチンワークに些細なトラブルが発生した、その程度の意識しかないのだろう。 激戦が続く新潟を少し離れれば、緊張などこの程度のものだった。 「いいや、チェックに漏れがあった。直に済む」 この程度の言い訳で稼げる時間などたかがしれている。 「・・・分った。後がつっかえているから急いでくれ」 「・・・了解」 そして、向き直る。 少女、学徒動員で軍に徴用された整備員見習いの少女は、おそらく生まれてから一度も触ったこともない拳銃を構えて、ただ一人ベルクートの前に立ち塞がっていた。 その勇気には感嘆するしかない。 航空軍司令部を欺き、2千以上の兵員が勤務する佐渡島空軍基地の殆ど全てさえ欺いたというのに、たった一人彼女だけが俺の計画に気付いて、撃ち方さえしらないだろう拳銃を持ち出してまで止めようとしているのだ。 新潟へ、咲耶との決着をつけるために、二度と帰ってこれないフライトに赴こうとする俺を止めるために。どこからそんな行動力が湧いてくるのか、見当もつかない。 「おい、眞深!こんなことはやめるんだ!」 遠巻きに彼女を囲む整備員の一人、整備中隊長はしゃがれた声を枯らして叫んだ。 「だって、おかしいじゃないですか!どうしてですか?どうして!もう戦争は終りなのに、新潟なんか直に陥落して、戦争は終わるのに・・どうして!?どうして、死に行こうとするんですか!」 この小さな少女のどこにそんな力があるのか、叫ぶ声は信じられないくらいに強かった。 振り乱して、泣き喚いて、大人しい彼女しか知らなかった所為か、こんなむき出し感情を向けられたことに幾らか胸がざわついた。 けれど、それは水面の細波のようなもので、水鏡に映る月ならともかく、深海に沈んだ沈没船を動かすことなどできない。 「頼む・・・行かせてくれ」 「イヤ、絶対にイヤ!どうしてですか、そんなに千影さんを殺した人が憎いんですか!」 毎晩夢にみる千影の面影が瞼に浮かんだ。少し、はにかんで笑う千影。幸せにつつまれていたあの頃。けれどそれはもう記憶の中にしかない。それはフィルムに刻まれた過去の映像のようなもので、それはもう完結した物語だ。 「いいや・・・憎くないと言ったら嘘になるが、もういいんだ・・そのことは。復讐なんて考えてないよ」 「じゃあ、どうして!?」 「まだ遣り残したことがあるんだ」 「そんな言い方・・・!」 彼女は喉がつぶれて、息をすることさえ苦しそうだった。 「そんな、言い方しないでください!死ななくてもいいじゃないですか!この基地でじっとしていれば!どうして、私を置いていってしまうんですか!私に優しくしてくれたのは嘘だったんですか!そんなに千影さんの所に行きたいんですか!」 がしゃんと、彼女の手から落ちた拳銃が悲鳴を上げた。 俺は言葉を失っていた。 確かに、彼女に空戦のことや、大阪での生活のことや、子供の頃のことを暇なときに話したことはあった。けれどそれは他愛のない世間話のつもりだった。それくらいしか接点はなかったと思う。だから彼女の思慕にはまるで気付かなかった。 いや、きっと知っていて避けていたのかもしれない。白雪ちゃんの時と同じように。 そして今度も、謝る事も、やり直すこともできないまま、行かなければならなかった。 彼女を抱き寄せる。それはせめてもの罪滅ぼしのつもりだった。それで罪が贖われるとは思っていないけれども。 「もういいじゃないですか・・・好きなんです・・あなたのことが。好きなんです。行かないください・・・お願いです」 「・・・すまない」 「どうして・・」 震える彼女の声には諦めが色濃く現れていた。 「俺は戦闘機パイロットだ。戦闘機パイロットは俺にとっては職業じゃないんだ・・・生き様だって、言ってもいい。他の人生があるとは思えない。俺に、自分の貫徹させてくれ」 それに、 「・・・妹が待っているんだ・・・泣き虫でね、俺が手を引いてやらないと外に遊びにもいけないくらいでさ・・・心配なんだ」 「それが、遣り残したことなんですか・・・」 「・・・」 沈黙が答えだった。もう、語るべきことは何も残っていなかった。心が軽かった。空虚ではない。だが、本当にもう何もなかった。 「あなたは・・バカです・・」 「知ってる・・・知ってる、つもりだった」 涙は止まっていた。赤く腫れた目で見上げている彼女は、笑っていた。下手くそな笑顔だった。笑い返す、上手く笑顔を作れたかは、自信がない。 整備中隊長に支えられて、彼女は道を空けてくれた。 彼との付き合いは長い。一度だけ振り返った彼に、軽い会釈で返しれないほどの借りを預けた。彼は目深いに整備帽を下ろし首肯する。彼は行けといってくれていた。言葉は必要なかった。口をあければ、きっと彼も彼女と同じことを言うに決っていた。 タキシング。ランウェイへと向かう。 これが最後かと思うと、ただのタキシングでも感慨深いものがある。何時もどおりにバックミラーで中隊機が遅れていないか確かめる。つまずく列機は一機もない。中隊が全盛期だったころ共に戦ったエース達が帰ってきていた。 懐かしい仲間とまた戦えるのは素直に嬉しい。けれど不可解でもある。なぜ首都の新潟基地ではなく、こんな何の価値もない佐渡島に中隊は配置されたのだろうか?空から見下ろして、何か得体の知れない巨大な施設があることは知っていたが、だからといって一国の首都に代えられるようなものだとは思えない。 「コントロールタワー、遅れてすまない。離陸許可を求める」 「いいや、いいさ・・黄1。離陸許可を与える・・・グッドラック。あんたこそ本当の勇者だ」 「・・ありがとう」 もしかしたら、騙されていたのは俺の方かもしれない。 だが、別にどうでもよかった。もう、残りの仕事はそれほど多くない。拘るべき理由はどこにもなかった。むしろ嬉しいくらいだ。軍人としての義務や名誉など、詮無いことを彼岸の彼方に押しやると、驚くほど感情は自由になった。 視線を滑走路へ戻す。 5月、雨がふったばかりの滑走路はまだ湿っていた。雲は多かったが気になるほどでもない。上空は風が強いのか、雲の動きは忙しない。風に流されて、散りじりになる雲の隙間から陽射しが差し込んでいた。それはまるで階段のように見えた。 ラスト・ワン・チェック。整備員達がいつもどおりに、流れるような動作で機体の最終チェックをしてくれた。 その時、風が吹いて視界の端を粉雪のように舞う桜が横切った。 基地の脇には、遅咲きの桜が春を謳歌している。花見をする余裕さえなかったけれど、遠目に眺めた桜は美しかった。 たとえ体制やイデオロギーが違っても、桜は何も変わることなく花を咲かせ、散らし、葉を繁らせ、秋にはそれを落とし、冬の風に耐える。 そんな風に、生きることができたら・・・きっと素敵だろう。けれど、散った桜は戻らない。空に消えた千影が戻らないように。 日の光は淡い琥珀色をしていた。まもなく、全てが紅く染める夕日に変わるだろう。 整備員がミサイルセイフティーを外して、持った手を大きく回した。そして静かに離れていく。 スロットルを押し込んだ。 軽いカウンタープレッシャー。機体は加速して、翼が日没の近い大気を切り取って空を飛ぶ力に変える。アフターバーナー点火。 サイドスティックを引くと、微かな浮遊感。そのまま引き続ける。戦闘上昇。 雲の間から差し込む光の階段に機体を乗せた。ヘルメットバイザーのお蔭で逆光は気にならない。 光の先には青空が広がっていた。目がつぶれそうになるほど、青い空。雲は視界の果てまで続いて、風に任せるまま千切れ、放浪する。不ぞろいな雲はまるで庭園に咲く草花のよう。その隙間から覗く祖国の大地はまるで遠い異国を見るようで、気分は旅人だった。 千影も、俺も、2人で愛したこの世界。 その終りを見届けに行くとしよう。そして兄妹の因縁に、決着を。 2002年5月12日 新潟 その一撃にいち早く気がついたのはAN/TPQ47対砲レーダーだった。 フェイズドアレイアンテナに配置された1面あたり4096個の発進素子数から放射されたレーダービームは30キロ先から秒速760メートルで飛来する1.2トンの榴弾を捉え、反射された電波を同レーダーの4056個の受信素子が受信、すぐさまPPIスコープに尾を引いた流星の軌跡が現れる。流星の数は9つ。着弾まで20秒を切っていた。 顔面を蒼白にさせて一瞬だけ自分の職務を忘れたレーダー操作員に代わって、フルオートの警戒システムがデーターリンクを通じて警報を出した。予想着弾地点には市街地突入を図るべく前進していた1個戦車中隊がいた。 賢明な中隊指揮官はすぐさま指揮下の戦車を後退するよう指示したが、対応時間があまりにも少なすぎた。 半世紀前に製造されたソビエツキーソユーズ用16インチ1.2トン榴弾は既に腐れ弾となっていて、電波近接信管が作動したのは9発中5発だったが、それでも残る時限信管は枯れた技術であることが幸いしてきちんと作動した。 結果、9発の16インチ砲弾に内臓されたTNT炸薬は戦艦解放の砲術長が思い描いたどおりの破壊を現出させ、秒速6900メートルの爆速によって数万の砲弾破片と衝撃波を撒き散らした。 偶然にも、戦車隊の進撃が遅れていたことから後方で待機していた歩兵部隊は戦車が宙を舞うという非現実な光景の目撃者となる。もっとも、400メートル離れていても16インチ榴弾の破壊力は衰えるものではなく、衝撃波で鼓膜を破られるの兵士が続出した。 すぐさま対砲レーダーによって観測された発射地点に対して友軍の155ミリFH−70、203ミリM110A2など各種榴弾砲が対抗砲撃を始める。 市街戦を予期して持ち込まれた2個砲兵大隊のM110A2、8インチ榴弾砲は座標が確定していることからすぐさま効力射に入る。8インチ、203ミリ榴弾のオープンファイア。間欠泉のように噴出すマズルファイアと、他のあらゆる戦場音楽を圧する砲声が大気を連打した。さらにやや小さな155ミリFH−7榴弾砲がアンサンブルのカスタネットのように8インチ榴弾砲のドラムビートに続く。 あらゆる戦場ロマンチシズムを吹き飛ばす、赤い星の国においては圧倒的な鉄量の投入と表現されるスチールレインは市街地を越えて悠久の流れ誇る信濃川に鎮座した鉄の城へと降り注いだ。 既に市街地に侵入し、議事堂を目指していた国防海軍特殊部隊の一人は鉄火に打たれる東日本の最大の水上艦艇、戦艦解放の燃える様を見て叫んだ。 「見てるかー!純一郎!お兄ちゃんは勝ったぞ!」 その両目から溢れる涙は止まらない。 自分と同じように海軍を志して、かの戦艦の砲撃によって戦死した弟へ弔いがようやく成ったことが彼の涙腺を破壊していた。 ある者は喚声を上げ、ある者は下品なジョークを飛ばした。指揮官もそれを止めようとしない。彼だって、もしも自分が一兵卒だったら喚声どころか、嬉しさのあまり泣き出してしまいかねなかったからである。 効力射開始からおよそ30秒、既に前日の爆撃で傾いていた艦橋は松明のように燃え出す。それはまるで四面楚歌の戦いで落城、炎上して消えた大阪城のようであり、滅びようとする国への送り火にも見えた。 もっとも、そう考えているのは彼らだけであったが。 次の瞬間、解放は反撃の牙を剥く。 3連装3基の16インチ砲はサルヴォー。解放が沈黙したと思い込み、陣地転換の遅れた重砲陣地は一撃で沈黙を余儀なくされた。 戦艦1隻の砲撃は歩兵7個師団に勝る。それは半世紀前のソロモン海をめぐる戦いにおいて艦砲射撃を経験したある軍人の言葉だった。そして、それは半世紀後の新潟によって実証されようとしていた。 だが、実際に戦地に立つ兵士にとってそんな戦訓はどうでもよかった。解放が吼えるたびに、半径40キロ以内のどこかで破滅的な破壊が撒き散らされた。 もっとも、既に構造限界に達しようとしていた解放にも、主砲斉射の暴力は容赦なく降り注ぐ。海底に着底したことで海水による砲撃のショック吸収を期待できない砲撃は、一撃ごとに解放自身を崩壊させていく。 閉鎖したハッチが歪み、次の砲撃で留め金はひしゃげて潰れた。次の砲撃を待つことなく、信濃川の水は解放に浸潤を果たす。 防火シャッターの崩壊も深刻だった。既に残された電力の全てを主砲の操作にむけた解放には効果的な防火も、消火もままならない。ダメージコントロールなど全く放棄していた。 だが、それでも良かった。ただ主砲を撃つ事、戦艦という存在が持って生まれた至上命題を果たすことだけが船に乗り込んだ者全ての喜びであり、先の見えた彼らにとって唯一生きるだけの価値ある目的だった。そして、この戦争の責任を負うべきと自らに任じた者達にとっては唯一の責任の取り方と言えた。 砲撃の度に燃える艦橋から火の粉を舞い散る。その火の粉さえ吹き払うように、さらに解放は吼える。衝撃波が信濃川の水面を押しつぶし、重砲の反撃が水柱を上げて解放を包む、降り注ぐ泥水が解放を汚し、それを拭うように炎が化粧をしなおす。 その全てが灼熱に包まれてなお砲撃を止めない解放に、特殊部隊の兵士達はある種の畏敬の念さえ覚えるほどだった。 兵士達は、泣きはしなかった。けれど、これ以上となくその在り方に哀しみを覚えていた。 「あの戦艦の船乗りは、船と運命を共にする気だ・・・」 特殊部隊とはいえ、同じ海軍軍人である彼らはそれが痛いほどよく分った。そして、その散りざまに軍人としての理想の姿さえ見出していた。 そして敬礼。肘を上げない完璧な海軍式の敬礼を捧げて、彼らは走りだした。 まだ戦争は終わっていない。背中に担いだ日章旗を議事堂に掲げることが戦争を終結に導く道だと信じて、彼らは走る。 「敵砲兵陣地、沈黙!」 「もういい、もう十分だよ。今すぐ持ち場を放棄して脱出しろ!」 珍しく声を荒げた可憐元艦長は崩壊しそうになる涙腺を辛うじて制動した。 けれど、肺腑を燃やし尽くすような怒りの咆哮に対する返答は軽い調子だった。微かに笑う声さえ聞こえるほどだった。 艦橋を燃やす炎は艦橋頂上の対空監視所まで達しているはずなのに。 「それはできません、艦長。火災延焼、既に退路はありませんので。監視所は任務を完遂します。艦長につきましては・・・」 彼が言い終わるまえに電話は切られた。不燃加工されているとはいえ、それも程度の問題だった。電話線は燃え切られ、唯一CICと対空監視所を結ぶ連絡線は断たれた。 「・・・」 永遠に沈黙した受話器を置いて可憐は艦長席に腰を下ろした。 まるで弔うかのように解放は主砲発射。一度も口をつけていないコーヒーは黒い水面を波立たせた。 分厚い装甲と防音剤の詰め込まれたCICまで響く解放の斉射は、酷く悲しげに響く。船乗りの死を悼んで泣く、セイレーンのように。 「艦長・・・」 「大丈夫だよ・・・それと、今は元艦長だよ」 「いいえ、解放の艦長はあなただけです」 真摯に響く副長の声にかろうじて暴れ出しそうになる心を押さえつけた。 けれど、思考を止めることはできない。 一体自分は何をしているのだろう・・・既に失われた目的のために無駄に部下を死なせるしかやることはないのだろうか。 終戦工作に失敗し、今ではクーデター政権に追われる身になった自分が今日まで生きているのは解放の乗組員が船に匿ってくれたからだった。彼らは自分が祖国にとって裏切り者であることを知っていて、それでいてまだ艦長と呼び慕ってくれているのに、私は何もしてあげることができない。 「・・・いいんですよ。どうせ戦後に場所が得られるとは思えません。海上砲台とはいえ、主砲が撃てるだけで幸せって連中ばかりを残しました。全員納得済みです。艦長はどうか、あいつらを褒めてやってください」 「副長もそうなのか?君には、孫がいるんだろう・・・それに娘さんも」 以前、酒の席で彼に家族写真をみせられたことがあった。 幸せな家庭というものの見本のような、そんな写真。 「いいんですよ・・・疎開船、潜水艦、北の海」 単語だけの言葉であるがゆえに、想像力を働かせるのは容易だった。 「・・・ここも海です。海はこの世界の全てに通じています。ここで死んでも、娘の眠る海へは泳いでいけますよ」 副長は頬に微かに笑みを浮かべた。その笑みは優しかったが、悲しすぎた。 「まだ私には副長が必要だ。勝手に死ぬことは許さないよ」 「はい、艦長。心得ています」 およそ守られるはずのない命令に頷く副長の声は酷く涼しげだった。 解放の咆哮が再びCICに届く。 ほぼ同時に、役に立たなくなった電子システム代わりの伝令が駆け込んできた。 「艦尾の延焼が止められません、このままでは第3砲塔が誘爆します」 だが彼がそれを言い終えるよりも早く、事態は進行していた。 無音の空圧。 稲妻に撃たれたように体が痺れた。音が消え、色が消え、重力さえ消え失せる。次の瞬間、それは物理的な衝撃を以って視界を掻き乱した。 爆音。解放が震えた。6万トンを超える巨大戦艦の鳴動。口をつけていなかったコーヒーは倒れ、まともに可憐はひっかぶる。固定されていないものは全て薙ぎ倒された。固定されていた艦長席さえ倒された。 気付いたときには、体は宙を舞っている。衝撃、叩きつけられる。 「ダメージ・リポート!」 ぐらつく視界を押さえて可憐は叫んだ。同時に咳き込む。引き攣れるような痛みが胸に奔る。確実に肋骨が何本か折れていた。 返事はない。代わりに耳はどこかで何かが巨大なものが引き裂かれる音を捉えていた。得たいの知れない戦慄が背筋を走りぬける。 それは確信に近いほどに、死の気配を引き連れて迫りつつある。 「艦長!」 副長に突き飛ばされる。 再び、轟音。 視界はシェイカーの中に氷のように揺れる。リノリウム張りの床はトランポリンのように跳ねた。人形のように可憐はなす術もなく圧倒的な力に振り回される。トランポリンのようでも、床の硬度は変わらない。 跳ねているのが床ではなく自分であると気付いたとき、倒れた副長につぶれた天井が降り注ぐのが見えた。 悲鳴、私は悲鳴を上げていた。私の悲鳴を掻き消す金属の悲鳴、解放の断末魔。 第3砲塔の誘爆と艦橋全てを包み込む炎。それは既に半世紀近いの時を経たロシア製工業製品に求められる苦難の限界を超えていた。前のめり倒れる艦橋は第1、第2砲塔を押しつぶし、その衝撃は揚弾中だった16インチ砲弾をエレベーターから落下させ、さらに弾薬庫にあった主砲弾、コルダイトチャージを一まとめにシェイクした。 そして、防火シャッターが破れ火の粉が吹き込み、何もかもが光の彼方へ消えた。 「大佐殿、もう燃料がライター分です。徹甲弾も残り3発」 撃破したばかりのM1エイブラムズを見ていた春歌は操縦手のブルクハルトの声に溜め息で返した。 そして、自虐的な笑みを零す。微かに潜めた眉と口元に浮かんだ笑みが機能しなくなったCRTディスプレイに映って、それを見てまた春歌は溜め息を漏らした。 「どうしたのですか?」 「いえ、なんというか自己憐憫に浸っている場合ではありませんのにね・・・」 「その気持ち、お察しします」 と、砲手のバルタザール。 「初陣のベルリン市街戦の時も、大人みんなそんな顔をしてました」 彼の顔に浮かんだ深い疲労、そして諦念。さらにそれすら通り越して場違いなまでに軽い笑み。それを見ていると、心救われるようでした。 「で、どうしますか?」 「・・・後退しますわ。川へ行きましょう。そこで戦車を水没処分します」 「それは結構なことですが・・・外の連中が納得するかどうか・・」 確かにその心配はありました。 外には、今のところ味方である民兵がおよそ1個中隊ほどいました。それに東日本軍の正規軍も。今でこそ、肉薄攻撃とティーゲルVの連携で1個小隊のエイブラムズを仲良く分け合った仲でしたが、撤退すると言えば彼らは何をするか分りません。 最悪の場合、彼らが手にするRPGの矛先がこちらに向くことも考えなければなりません。 既に火事場泥棒や略奪、治安組織の崩壊した新潟ではどす黒い人間の狂気を垣間見ることが多くなっていました。 別にそれを否定したりするつもりはありません。追い詰められ、飢えた人間の心理に何か善意のようなものを期待するほどワタクシは愚かではありません。けれど、被害者になるつもりもありませんでした。 「けれど・・何も言わないまま行くわけにはいきませんわ」 意を決してハッチを開けます。 既に砲撃で破壊しつくされていましたが、ここはこの国が健在だったころにソヴィエトを真似て作った赤の広場と呼ばれるところでした。もっとも、今は月面に近い状態なっていますが。 不意に風が吹きます。火の粉を含んだ暑い風でした。 視界の中にある街の建物で無事なものは何一つありません。ソヴィエトを真似て造った規格住宅やビルディングには適度に爆撃や砲撃のアクセントが加えられ、どれ一つとして同じ形はしていませんでした。 炎が中を焼き尽くし、看板のようにコンクリートの壁だけが残ってビル街は日が傾いたせいか闇をまとって不気味な景観をつくり、そして時折崩れて隠れていた避難民を巻き添えにしていました。 巨大な書記長の像はとっくの昔に戦車砲の砲撃で薙ぎ倒されています。壁に描かれた巨大な書記長の顔に爆撃で粉々になっていました。 まあ、そんなことはどうでもいいことよりも、新潟のあちこちで上がる火の手が大変でした。消防の動かない街では何れ全てが炎に嘗め尽くされるでしょう。 そして、遠くに大音響を聴きました。 炎は見えません。けれど、すぐさまビルの屋上の向こうに立ち上る巨大なきのこ雲を見れば何があったかは直に分ります。 「・・・悲しいことですね」 きのこ雲が立っているのは信濃川の河口の方でした。水上砲台として確か戦艦が配置されているはずでしたが、武運尽きたのでしょう。 それにしても、肝心の民兵はどこにいるのでしょうか?姿はどこにもありません。 ただ放心した顔で突っ立ている正規軍の兵士が2、3人いるだけでした。 もしも、民兵は逃げてしまったというならなかなかに好都合なのですが。 「失礼!少しお尋ねしたいのですが・・・ここにいたはずの国民突撃隊はどうしました?」 聞こえていないのか、兵士はぼんやりと空を見上げるだけでした。 「聞こえていたら返事をしないさい!」 怒鳴りつけても、やはり兵士はぽかんと空を見上げるだけです。まるで電池の切れたロボットとでもいいましょうか、魂が抜け落ちていました。 「大佐殿・・・あれを」 車体ハッチから顔を覗かせたブルクハルトは空の一点を指差しました。 視線を送った先には、一際目立つ背の高い石造建築物。この国の立法府である議事堂が建っていました。 そして、その趣味の悪い尖塔に翻るのは赤旗ではなく、日の丸。それは誇らしげに、黒煙と火の粉に弄られながらも風を受けてはためいていました。 まるで、全身の血を一瞬にして抜かれたような虚脱感。よろめいて、危ういところで手をついて支えます。 覚悟はしていました。何度となく夢や妄想のなかでもこの光景を弄んできました。そのお蔭か。ショックで自分を見失うほどではありません。 それに議事堂に戦勝国の旗が翻るのを見るのは、半世紀前に一度経験があるので免疫があるのかもしれません。もっとも、できればクレムリンとかロンドン塔とかにハーケンクロイツを掲げてやりたいものですが。 「あのぅ、私達はどうすればいいんですか?」 ほんの数分前までの勇戦敢闘はどこにいったのか、古参の兵だった伍長はシャバから来たばかりの新兵よりも腑抜けた顔をして言いました。 「あなたは義務を果たしました。ワタクシの権限であなたの義務を解除します。家にお帰りなさい」 「はあ・・・帰って何をすればいいんですか?」 「・・・お子さんはいますか?」 ワタクシは質問に質問を返す失礼を冒しました。 「はい、息子と娘が一人ずつ」 子供という単語に彼は微かに表情を柔らかくしました。 彼は頼まれてもいないのに、懐から写真を出して見せてくれました。ブロンドの、ロシア系の奥方と、その血を色濃く引き継いだ仲の良さそうな兄妹。ロシア系のDNAが強い家族の中で彼の存在は少々奇異に見えました。けれど、その笑顔は羨むほどに幸せそうで、自分の家のことを振り返って、少々憎らしく思えるほどでした。 「では、簡単なことです。帰ってお子さんを抱きしめてあげてください。子供は、親がいなくても育ちますが・・・ある事柄を教えるには、やはり時期というものがありますから」 「そうですか」 「そうですよ」 気のない返事を返してとぼとぼ歩いていく伍長を見送ります。 彼にとって戦争の終りというものがどんな意味を持つのかは分りません。整理がつくにはまだ時間がかかるでしょう。 しかし、それは彼自身の問題でした。ワタクシにできるのはここまでです。 「さて・・・」 では自分にとっては、この戦争は何だったのでしょう? 答えは闇の中です。やはり私も結論に至るには時間がかかりそうでした。 それはきっと、この国を走り抜けた1年がセピア色に枯れる程度には掛かるでしょう。 今は、無性に何か青いものが見たい気分でした。 空を見上げます。空は戦火の黒煙に蔽われて濁っていました。0点です。ビルの稜線に寄った太陽は黒煙のせいか歪んで見えました。もう天頂は夜の色を濃くしています。 「ブルクハルト、今から海を見に行きますわ」 空がダメなら、海しかありません。 「今からですか!?それも戦車で」 「そうです、戦争は終わりました。私用に戦車を使うぐらい、多めに見てくれるでしょう」 「しかし、連合軍に撃たれる可能性はありますよ」 「それならば、撃ち返すまでですわ」 滅びゆく一国の首都を横目にしてドライブ。それも海を見に行くために、しかも戦車で。 とても愉快でした。祖国に帰ったら自慢してやることにしましょう。 「さぁ、急いで。サンセットを逃したら大変ですわ」 諦めたように肩を竦めてブルクハルトはエンジンをかけました。 排気管から盛大に紫煙が吹き上がり、傷ついた虎はゆっくりと巨大な動輪を回して走り始めました。 ゆったりと、キューポラに背中を預けて眺めるとはなしに、燃え尽きた菩提樹に眺め、崩壊する赤い帝国を見送りました。 人気の無くなった赤の広場を背に、ティーゲルVは最後の道程を踏みしめます。 すれ違う街の人々は歓呼で、入れ違いになった連合軍を出迎えます。去り行くワタクシ達には憎悪と、いくらかの惜別。 今だ呆然としたままの兵士をそのままに、歓喜した市民の津波はどこまでも続いていました。 「大佐殿・・・戦争は終わりましたが、祖国に帰ったら何をしますか?」 人の波に飲まれないように、戦車を道の脇へ寄せてブルクハルトは言いました。 「さぁ・・・分りませんわ。でも、軍にはいられないでしょうね」 負けて帰ったワタクシ達に、居場所があるとは思えません。 あなたはどうするの?と逆に尋ねると、 「国に帰って農園を継ぎますよ。両親はもう歳ですからね・・・心配させるのはこれが最後って決めていたんですよ。もう軍隊はこりごりだ」 「なさけない・・・わしのような爺が現役だっていうのに」 あんたは特別だよと、ブルクハルトは返した。 「戦争が終わったら、か・・・今まで考えたこともありませんでしたわ・・・でも、終わってみると寂しいものですね」 戦場になった新潟はまるで祭りの後のように見えました。 放置された戦車、瓦礫に埋もれたBMP、空を向いたまま主の帰りを待つ高射砲、煤けた空薬莢が転がった路地、眠ることを忘れたデグチャレフは夕日を浴びて眠りにつき、巨大な戦闘機の突き刺さったビルは時が止まったように佇んでいます。 それは今にも動き出しそうで、けれど決して動き出すことはないでしょう。明日の朝には後片付けが始まって、何一つ痕跡さえも残さず消え去る運命です。 だから名残惜しく、時間がこのまま永遠に止まればと思わないでもありません。 「終わらせたくないですか?」 首を振って言外に否定します。 「・・・もう戦車はこりごりですわ」 帰ったら、ワーゲンを買いましょう。一人で旅に出るにはちょうどいいサイズの。 遠くで歓呼が爆発して、背中を打ちました。 もう、ワタクシの出番は永遠にないでしょう。新しい時代に生きるには、ワタクシは少々くたびれていました。 長く続く大通り、その先に海があります。傾いた日が海面を赤く染めていました。 松明のように燃える戦艦がそれをより赤いものへ変えています。 空は濁っているのに、夕日は鮮血のように紅く、炎よりも透き通る赤でした。 それはきっと、この戦争で死んだ人への送り火、紅く咲いた野辺の花。 ここが、この戦争の終着駅でした。 それは見知らぬ天井だった。 当然といえば、当然で、それは面識のない人の顔だったのだから、知っているわけがない。 美人だな、と思い見上げていると、彼女は容姿に相応しい美声で言った。 「セイラー、大丈夫ですか?」 「大丈夫・・・ですよ」 体を起こそうとして、激痛に呻く。肋骨だけではなくて、他にも骨が折れているようだった。それに下半身の感覚がおかしい。 「起きないほうがいいですわ。脊髄の損傷があったら大変ですから」 彼女は手馴れた手つきで包帯を巻いてくれた。 「衛生兵?」 「いいえ、戦車兵ですわ。ドイツ義勇旅団で大佐をしている春歌と申します。閣下」 彼女は慇懃に言った。それが少し残念だった。綺麗な声をしているのに、台無しだと思う。 「閣下はつけなくてもいいよ・・・滅びた国の軍人なんて、ただの人だよ」 「ではそうします。セイラー」 それもイヤだったので、自己紹介をすることにした。 既に、意味のなくなった肩書きを添えて。 「解放はどうなりました」 「あの戦艦だったら、あちらで燃えていますわ」 春歌大佐の視線の先には、真っ赤の夕日を背にして燃える解放。 艦橋は倒れ、艦の全てが炎に包まれていながらも、それはまだ解放の面影を残していた。 体が震えた。鉛でも呑んだかのように、胸が押しつぶされる。頭が真空の空白になり、全ての思考が引き攣れた破壊音を立てて吹き飛んだ。 そして最後に残ったのは、死に損ねたというどうしようもない事実だった。 分らなかった。どうしても分らなかった。どうして私はあの中にいないのか、どうしても理解できなかった。 私は、どうして自分が生きているのか理解できない。 「・・・拳銃を貸して」 「自殺幇助をするつもりはありませんわ」 今死んでも戦死にはなりませんわ、とも春歌大佐は付け加えた。 「だけど、生きてる意味なんかない。私は、艦長として、軍人として、部下と祖国に責任を取らなければいけない。お願いだよ、大佐」 「腹を切るだけが責任の取り方ではありませんわ」 春歌大佐は射抜くような目で言った。 「私は祖国の裏切り者なんだ・・・今日この日があるのは可憐のせいなんだよ。情報をリークして、連合軍の情報を握りつぶして、今日この日があるのは、可憐のせいなんだよ!」 「それがどうしました?あなたは自分がシュタフェンベルグ大佐並だと思っているのですか!?」 春歌大佐は血走った目で怒鳴った こっちには怒られる理由など何ひとつないというのに。 「そんなに祖国が大切だったら、どうしてこうなるまえに一発の弾丸を叩き込むことができなかったのですか?簡単なことでしょう。自分の命さえ惜しくなかったら、いくらだってこの国を救うことができたはずです。それができなかった臆病なあなたに死ぬ資格なんてありはしません」 「あなたに何が分る!」 「分りますわ。あなたが自分の命を惜しんだ臆病者で、自分で舌を噛んで死ぬ覚悟もない卑怯者で、自分の未来に脅えて立ち竦む逃亡者だということぐらいは!」 彼女の腰のホルスターに伸ばした手は容赦なく叩き落された。頬を張られて火花が飛ぶ。錆びた鉄の味が口の中に広がった。 痛かった。これ以上となく痛かった。 「それに・・・あなたは、自分を頼りにしている人を残して死ぬつもりですか?」 声には抑揚がなく、液化するまで冷却された可燃ガスのように、触れるだけで氷尽きそうだった。 陽炎など見えない、ただ荒涼していた。その瞳は直視に耐えられない。青白い光を宿した眼は鋭く、冷たく、蒼い。 私は酷く驚いていた。仕事上、今まで恨まれたり憎まれたりしたことは数知れない。しかし、こんな真剣な怒りに接したのは初めてだった。 私はまた分らなくなった。こんな時どうすればいいか、誰も教えてくれなかった。 けれど、それはついて口を出た。 「ごめん・・・ごめんなさい」 「それはワタクシに言うべきセリフではありませんわ」 そう言って肩を竦めた彼女の向こうに、ひょろりと高く、ずぶ濡れになった副長が半笑いで立っていた。 条件反射的に半笑いで手を上げて答える。副長の向こうには、やはり半笑いの、ずぶぬれの兵達が立っていた。 笑うしかなかった。今までのやりとりを、全部見られた。 「艦長・・・どうしましょう?生き残ってしまったのですが」 他にも大勢、と副長は付け加える。砲が撃てなくなったので、残存兵員が全て脱出させたのだという。 「そのまま生きていろ。そうだ・・・孫と娘の墓でも立ててやれ」 「金がないのです・・ご存知の通り、東日本円は紙切れになってしまったので」 副長は財布から書記長の肖像が入った東日本円を取り出して、びりびりに破いた。 風にのって、バラバラに引き裂かれた紙幣だったものは夕暮れの海へ落ちる。茜色の海に舞い散る紙ふぶきは、まるで桜の花弁を思わせた。 「では、私が職を案内してやる・・・だから、もう少し・・・その・・・・頑張れ」 「アイ・サー」 完璧な海軍式敬礼で返す副長を見て、笑いが止められなくなった。 海草まみれだった副長は敬礼をした途端、わかめが頭から落ちて顔が酷いことになったのだ。 「やれやれ・・・ですわ」 疲労を強く滲ませて彼女は頭を振った。 付き合ってられないとばかりに。 確かに、我ながら現金なことで、ほとほと自分にあきれ果てた。けれど、一瞬前の絶望的な気分はきれいに消えていた。 彼女が私の暗い心を怒りの炎で焼き尽くしてくれたからだろう。感謝しても、感謝したりない。 「あなたのような人ともっと早く出会っていたらな・・春歌大佐」 「あなたみたいな悲観論者には、ワタクシのような人間がお似合いなのかもしれませんね」 笑う彼女の背中を横切って、巨大な戦車が海へ向かって進み、そしてそのまま岸壁から落ちて水柱を上げた。 ディーゼルスメルがする泡が沖に向かって走り、直に見えなくなった。硝煙で汚れた海に透かして、海底に所属部隊を変えた戦車が見える。 「これですっきりしましたわ」 清々した、とも春歌大佐は付け加えた。 私も、襟の記章を剥ぎ取って海へ投げ捨てる。放物線を描いて飛んだベタ金の階級章は立てる音もなく海面へ消える。さっぱりした。 ようやく、私は本来の自分に戻ることができたような気がする。 そうすると、何故だろうか。夕日がやけに綺麗に見えるようになった。 「本当に・・・綺麗な夕日」 紅葉よりも紅く、空を染める太陽。 東の空には薄墨のように夜が広がり、夜の足音が響く。 一日が終わろうとしていた。落日の祖国、最後の日が暮れようとしている。 不意に響く、遠雷のようなエンジン音。 見上げると、茜射す西の空に白い飛行機雲が5つ。それはまるで太陽から現れたかのように、飛行機雲を紅く染めて空にあった。 まじかに爆音を聞く、夜の色に染まりつつある空から一斉に何条もの飛行機雲が現れ、夕日に向かって飛んでいく。 まるで別世界のできごとのような、遠く、美しい空の戦い。 見上げる空一面に広がったそれは、まるで一枚の絵画のようだった。 「あれは・・・黄色中隊」 ぽつりと、副長は呟いた。 それは嘗て日本最強と呼ばれた、失われた栄光の象徴だった。 「彼らはまるで・・・この国の終わりを見届けに来たようですね・・・」 寂しげに言うのは春歌大佐だった。 頭上を5つの編隊が通り過ぎる。彼らが風が連れて来た。。 潮の匂いと、硝煙を等分にした粘ついた風。それに乗って、どこからかもう終わったはずの桜の花が手の平に一枚、舞い降りた。 不意に思い浮かぶのは、士官学校で読んだ西行法師の短歌だった。 「願わくは・・・花の下にて春死なむその如月の望月の頃」 綺麗な詩だった。けれど、人の死を見つめる哀しい詩でもある。 そして悟った。何故彼らがここに来たのか。 「彼らは、決着をつけに来たんだ」 規則正しい5機編隊の中から先頭の一機だけが飛び出していく。 それを出迎えるように、夜の近い空から一機の白い戦闘機が飛び出した。2機は夜と太陽のせめぎ会う、黄昏の空で出会い、コントレールは螺旋のように絡み合う。 不思議な心地だった。何故だろう、潮風が目に染みたのか、涙が止まらない。 「エンゲージ」 永遠で、刹那の、哀しく、愛しく、奇跡のような、この戦争最後の戦いが始まった。 すれ違うと同時にラダーペダルを駆使して高速ロール。視界の上下が逆転する。そのまま操縦桿を引いてスプリットSに入る。 HMDにデジタル表示される荷重は7Gを超えて8Gに迫る。Gスーツのホースが太ももを締め上げて、血流が下半身に集中することを防ぐ。それでも、意識が白みかかった。 高度を速度に変えてシルフィードはさらに加速、高速でお兄様のベルクートの死角へ回り込む。 けれど、見上げた空にお兄様はいない。頭が真空の空白になる。反射的に見上げた。お兄様のベルクートは反転上昇中、真上から私を見下ろしていた。 ベルクートはインメルマンターンの天頂、そこからCCVとベクターノズルで逆立ちするように機首だけを下げて強引にIRSTの視界にシルフィードを捉える。 「詐欺よっ!」 ベルクートはマッハ0.98で降下中、抗議の声など届かない。 HARLID、高角度レーザー検知器の電子警告音。ミサイルが来る。 真上から迫るミサイルは高機動格闘戦ミサイルAA−11アーチャー以外にありえない。光学ミサイル警戒装置までもが悲鳴を上げる。 ロケットモーターの白い排気を視界の端に捕らえながら、操縦桿を引いた。上昇右旋回、さらにアフターバーナーを点火、失われる速度を継ぎ足す。エンジン排気の増大など気にしない。赤外線画像誘導の狩人を相手にするとき、多少のエンジン排気増大など瑣末な問題だった。多少減らしたところで、どうせ当たる。 アーチャーはラデンロケットノズルで針路変更、完全にシルフィードを捉まえていた。シルフィードは上昇しつつ、右旋回を続ける。 R−73のIRシーカーは最大俯角、圧倒的な速度でミサイルの背後へ向かうシルフィードを捉え続ける。ロケットノズルは最大偏向、膨大な推力を振り絞って、上昇するシルフィードの予測未来位置へ弾頭を向ける。 だが、シーカーの俯角限界よりもさらに深くシルフィードは回り込む。射手は疾風を見失う。ミサイル、自爆。 シルフィードは高度4123メートル。お兄様のベルクートを再び見失う。けれど、確信以上に、お兄様の存在をまじかに感じていた。 ずっと前からこの日が来ることを知っていた。もう、揺れる心も、流れる涙も、悲嘆に暮れる暇も、何もない。 ただ、長く続いた因縁とこの戦争を終わらせることだけを考えていた。 きっと私達兄妹は、運がなかったのだろう。もしも生まれる場所と時代が違っていたら、こんなことにはならなかっただろう。さらにいえば、私がお兄様と東日本にいけば、今日のこの空は無かったに違いない。 けれど、2人は分かれて、それぞれ兄と妹のいない人生を歩んで、そしていろいろなものを背負って、今日ここに来た。 私達は兄妹ではいられないほど、長い時間を生きてしまった。それが不幸といえば、不幸で、それでいて私は自分の歩んできた人生を振り返って、それを不幸と断じることはどうしてできなかった。 それはつまり、これまでの全てを捨ててでもお兄様を選ぶことはできない、ということだった。 闘志は湧かない。殺意など考慮の外だった。けれど、逃げ出すつもりはなく、負けるつもりもなく、サイドスティックを握る手は震えない。 再び、HARLIDが悲鳴を上げる。 私も悲鳴を上げて逃げ回りたかった。酷く気分がいいだろう。しかし、それ以外のできることがあることを、私は知ってしまった。 ベルクートはループからの緩い旋回、変形インメルマンターンでミサイルを回避したシルフィードの背後にとりついた。 IRSTとレーザー測距機によるパッシブロック。黒い前進翼機がシルフィードに迫る。 シルフィードはジンキングしながら、ロックを外すために大G旋回を選択。主翼を最大展開、翼端からコントレールを引いてブレイク。 瞬間的にデジタルGメーターは10Gを越えた。 血を吐くような旋回、息には毒々しい鉄の味が篭る。 「ダメだよっ!さくねぇ!」 ベルクートはその機動を10年前から知っていたかのように、旋回率を合わせてラグ・パラシュート。さらに間合いを詰めてミサイルを発射。 光学式ミサイル警報装置が悲鳴を上げる。着弾まで後5秒。 けれど、別段それは焦燥を強いるものではなかった。こんな攻撃、100年前から知っていた。 シルフィードは軽く機体を震わせた。 それは設計限界という枠を遥か下方に見下ろし、自由な、疾風の舞うべき自由な躍動に身をゆだねることへの歓喜の表現とも言えた。 セントラルコンピューターは自身が全く予期していなかった飛行領域に入ったことを各種観測デバイスによって感知する。もはや、予測制御など成立しない。 シルフィードは疾走、降下しつつ右旋回。 ミサイルは2発、初弾から2秒遅れて第2波が来る。着弾まで後1秒。 ミサイルのアクティブレーダー近接信管を作動、電子の投網をかける。反射波は即座に受信素子に戻り、起電流が流れた。電流は雷管で電気着火、7.4キロの指向性破片威力弾頭を起爆させた。爆発的な水素・酸素反応によって生まれた爆速8534メートルの高指向性衝撃波は膨大なスプリンターを引き連れて疾風に迫る。 だが、それより0.1セコンド早くシルフィードは飛行不可能領域に突入。風を読み、流体と戯れ、翼の届く限りへ、からっぽのステップを踏んで、シルフィードは跳ねる。 瞬間的な大Gに意識が飛んだ。シルフィードは旋回コーナーを外れ、全身をヴェイパーに包まれながら大きく脱線、刹那の一瞬だけ機首は垂直に地上を指す。死神の乗った爆風はシルフィードをかすめて虚空へ去る。 爆風は指向性が高すぎて、想定状況から外れたシルフィードを追いきれない。 そこへミサイルの第2撃。シルフィードのステップは止まらない。IHI−X02Aターボファンの轟音で空を掻き鳴らして、シルフィードは更に跳躍。 ミサイルシーカーはシルフィードを捉えていた。信管も起爆した。爆風も十分に撒き散らして、キルゾーンは十分に展開した。 それでもシルフィードは死線をすり抜けた。突発的な高機動、疾風はコーナー脱出方向へ機体を90度オフセット、ブーメランのように旋回した。 大G機動で軋む体に耐えて咲耶は笑った。 とんでもない飛行機だった。イーグルで見た限界などまるで問題にならないほどの飛行領域。あれほどの回避機動でさえ、まだ瞬き二つ分の余裕を残していた。 R−73を設計したMolniya設計局の局員が見れば「詐欺だ!」と叫ぶだろう情景、全てのミサイル設計者の悪夢がそこにあった。 妖精の領域に、機械仕掛けの魔犬は食い込むことが出来なかった。 ミサイルは自爆。シルフィードは反撃に移る。 お兄様のベルクートはまだ背後にいる。けれど、回避機動で間合いが開いていた。 シルフィードはその場で回るかのように、CCV機能を生かして小さく旋回。ベルクートと向かいあう。 すれ違う、相対速度はマッハ1を超えた。 音速を超える中で垣間見たお兄様の横顔は当然のようにヘルメットで見えなかった。けれど、それでいいのだろう。顔を見ても鈍る決心は持っていない。けれど、決着を見た後で思い出したら、溢れる涙を止めることはできないだろう。 勝利への布石を一つ積み上げる。 サイドスティックを引いて、スロットルを押し込む。ラダーペダルの踏み込みも交えて、神経反射に刻んだレシピを忠実に実効する。計器と機体の震動から説明不可能な流体の動きを感じ取って妖精の領域へシルフィードを放り込む。 機首上げ大失速。そこから独楽のように回って、機首から捻り込むようにして旋回。速度計は失速寸前から亜音速へ、Gメーターは12から0へと目まぐるしく変わる。姿勢儀は一瞬だけありえないはずの数値をたたき出して、そのまま沈黙した。けれど、まるで構わない。目を瞑っていも、風は感じられる。 変形オフセット・ヘッドオン・パスが成立。この戦いが始まってから初めて、ベルクートの機尾を視界に納めた。イン・レンジ。 「シーカーオープン」 軽く気を引く電子音。即座にセントラルコンピューターはAAM−5をホットに、カートリッジから冷却用アルゴンガスを注入、シーカーは絶対温度77Kまで冷却される。兵装管理ディスプレイのミサイルアイコンが高速で点滅した。 「フォックス2、フォックス2」 AAM−5の必中距離。分子運動停止温度より77度だけ暖かい赤外線フォーカル・プレーン・アレイ方式の多素子シーカーがS−37のエンジン排気を捉える。ヘッドセットに響く単音がフラットな長音へ変わる。即座に兵装投下スイッチを押し込んだ。迷いは、ない。 サイドベイが開く、ロケット排気を吸い込まないように即座に機首を翻す。けれど、HMDの視線感応キューイングは追尾継続、第2撃を放つ。ベルクートはミサイル回避のために大G旋回中、90度オフセットからのオフボアサイト発射。AAM−5はTCVで強引な針路変更、真横の敵機を狙い撃つ。 ロケットモーターの排気は黄昏の空に窪んだように残る。着弾まで後7秒。 瞬きする暇さえあれば、魔弾は黒鷲を射抜くだろう。 しかし、心のどこかで必ず外されると確信していた。優雅な、それこそ妖精が舞うような軽やかなステップで。 そして、それは思ったとおりになった。 ベルクートは降下しつつ右旋回、それで振り切れないと悟ると反転垂直降下。ミサイル着弾まで2秒で機首上げ、そこから先は私にもどうやったのか分らない。けれど、機首上げから飛び跳ねるようにV字上昇。AAM−5を掠める。アクティブレーダー近接信管は作動した。けれど、指向性弾頭は真後ろ敵機に衝撃波を飛ばすようには出来ていない。 そこへ遅れて第2撃が迫る。 お兄様のベルクートはそのまま垂直上昇。HMDに表示されるミサイル着弾予想時間が5秒を切ったところで、再び機首上げ。垂直上昇しながらカブチョフ・コブラ。さらにそこからベクターノズルで空を蹴って、クルビット。瞬間的に黒鷲は進行方向に180度回転する。 黄昏の空に赤い光弾の鎖が伸びた。機関砲のバースト射撃。命中まであと2秒のところでミサイルは撃墜される。 燃えるミサイルは燃料をばら撒きながら落下、視界の端から消えた。ベルクートは何事もなかったかのように、機首を戻して上昇する。大きく間合いが開く、仕切りなおしだった。 「あれは本当に人間が乗ってるのかな?」 「こっちだって、似たようなことをしてるわよ」 語尾が震える衛ちゃんに落ち着かせるように返す。 傍らを燃える戦闘機が落下していった。エンジンが破片を吸い込まないように間合いを取る。既にキャノピーはなく、パイロットは脱出した後だった。 戦闘は乱戦に陥っていた。黄昏の空に入り乱れた飛行機雲が覆いつくすように広がっている。 黄色中隊の3倍以上いるはずの味方から、撃墜の歓喜を聞くことはできない。空電の向こうから聞こえるのは大Gに耐える呻きと、被撃墜の悲鳴だけだった。 「ねいや・・・亞里亞に・お手伝いしてほしい?」 「ありがとう、でも遠慮しておくわ」 前もって用意してあった答えを返す。亞里亞ちゃんが率いる救援の到着だった。4個スコードロンが参陣して、黄色中隊との乱戦に陥った友軍機が撤退する。スカイクローバーが矢継ぎ早に指示を出して、統制の取れた襲撃が再開した。 亞里亞ちゃんはそれ以上何も言わずに、翼を翻して黄色中隊の4機編隊へ向かっていく。ダッソー・ラファールのアフターバーナーが青い炎を引いて、闇が強くなった紅の空に映えた。 「スカイクローバー、私に指示はないの?」 答えは分っていたが、なんとなく聞いてみたかった。 「して欲しいデスか?」 マイクの向こうの四葉ちゃんはちょっと笑っているようだった。 「・・・ありがとう」 お兄様のベルクートへ向かう友軍機は一機もいない。黄色中隊の4機も、お兄様の援護に向かうそぶりはなかった。 誰もが、私達の邪魔をしないように気をつかってくれていた。 その配慮に感謝しながら燃料計に視線を落とす。もう半分もなかった。計算が正しければ23000ポンドは使っている。ジェット燃料の公定価格はいくらなんだろう?成分の近い灯油でも、23000ポンドも使えば、請求書は信じがたい金額になる。さらにAAM−5は2発、先行量産型だから一発1億円は軽い。 これは途方もなく贅沢な兄妹喧嘩なのかもしれない。 けれど、それも許して欲しい。清算はお互いの命できちんとするから。 「さくねぇ、来るよ。12時方向、ヘッドオン」 「オーケー」 もちろん、言われるまでもなく気付いていた。衛ちゃんが気を取り直したかどうか、確かめるために黙っていたのだ。 仕切りなおしは十分だった。シルフィードの疾走は、まだ、終わらない。 「・・・行くわよ、咲耶」 お兄様のベルクートとすれ違い、シルフィードは高速スプリットSで死角へ回り込む。お兄様は右スライスで回り込もうとしていた。僅かにこちらが前に押し出される。 シルフィードはA/Bの青い炎を引いてブレーク、さらに機首を上げからフックに入って、速度計が異常なスピードで失速速度域へ入る。ベルクートはオーバーシュート。シルフィードはさらに切り返して、シザースに入った。ベルクートはそれを追尾。 機動限界まで飛び込む2機はコントレールを引いて、鋏のようにすれ違い、すれ違いあう。MAXアフターバーナー、IHI−X02Aターボファンは設計寿命を盛大に削りながらもてる全ての力を振り絞る。 絡み合う飛行機雲は単純な8ノ字から、上昇も交えて複雑な螺旋を描くローリングシザースへ移行する。シルフィードはバレルロールの頂点で僅かに機体を沈ませ、そこから機体を滑らせる。右主翼だけ失速させて、バランスを意図して崩す。右方向へ落ち込もうとする機体をそのままに、強引に捻り込む。 Gメーターが13Gを示して、意識が溶けるように消える。狭まる視界の中、茜色の空がやけに紅く見えた。レッド・アウト。 異常なほどに小さな旋回半径を見せて、シルフィードはほんの少しだけ移動ベクトルを削った。2横転目の旋回で僅かにシルフィードは優位に立つ。 直感が正しければ、4横転旋回で背後を取れるはずだった。 3横転旋回、ベルクートは正面から衝突するほど突っ込みをかけてそのまま切り返さず降下してシザースから離脱する。 けれど、それは予測済みだった。シルフィードはその場で独楽のように回って方向転換、ベルクートに追いすがる。 単音の電子音が低く響く。HMDの中でベルクートは目まぐるしくジンキング。けれどルビーレーザーの魔眼は確実に黒鷲を捉えていた。レーザーサークルに納まったベルクートにTDボックスが重なる。 オーラルトーンの心地よい響き。 最後の残光を浴びてベルクートのコントレールは紅く染まっていた。紅い空に浮かぶ黒鷲のシルウェット。それは何かを語りかけるようだった。けれど、何を伝えたいのか私には分らない。 夜が全てを黒く染めようとしていた。 もう時間がなかった。後数分で夜の帳がおちて、戦闘は酷く難しいものになってしまう。 決着をつけるべき時が来ていた。サイドスティックを握る手に、迷いはない。 ミサイル、発射。 灰色のヴェールを引いてミサイルは夕焼けの空を飛ぶ。まるでそれは気ぜわしく飛ぶ蛍のように見えた。 しかし、どこか虚しい。だってこれは、外されるために撃ったようなものだから。 まるで予言か神様の啓示のように、この一撃は苦もなく回避されると分りきっていた。この一撃は折り込み済みで、回避された後が本当の本番だった。 けれど、ミサイルはそんなことも知らずに、データーリンクで中間アップデート。LOALで自動ロックオン。IR画像シーカーがベルクートを捉まえる。 穴が空くほどみつめるベルクートの機動に変化はない。その後ろ姿はまるで飛び方を忘れてしまった鳥だった。 ミサイル接近率は増減もなくフラット。着弾予測時刻だけが一方的に減っていく。 着弾まで、後5秒。お兄様のベルクートに変化はない。まっすぐに、まるで沈んでいく太陽を追いかけるように飛び続ける。 何故だか、その後ろ姿は酷く不吉な気がした。戦闘で感じる不吉さとはまるで別種の不吉。寒気というよりは悪寒、心の底から冷える嫌な予感。 ミサイル着弾まで後3秒。何かアクションをしなければミサイルを回避できない。ミサイルの爆風の効果範囲は広く、一発でも当たれば大抵の戦闘機はバラバラになる。12G以上の高機動に耐えるシルフィードでも、それは例外ではない。 なのに、お兄様は何もしようとしない。 そこで私は、ずっと忘れていたある可能性に気付いた。 「まさか・・・」 小さな呟き、それを掻き消すように電子音。シルフィードがミサイル命中まで1秒を切ったことを教えてくれた。 「・・・ゲームセットだ」 小うるさいレーザー受動検知器や、光学式ミサイル警報装置のスイッチを切るとコクピットは驚くほど静かになった。ついでに操縦もオートパイロットに切り替えておく。 そうしてしまうと、もう何もすることがなかった。だから、外の景色を楽しむことにした。丁度よく時間はサンセット。リクライニングされた耐Gシートは景色を楽しみながらうたた寝をするには丁度良い。 とても安らかな気分だった。 これほどの安らぎを感じるのは、千影の腕の中ぐらいなものだろう。決して長いとは言えない生涯においても、これはベスト5に入る。 体はとても軽くて、スペースさえあればスキップしていたかもしれない。 もう何も無かった。思い残こすことは何もない。もう、この世にいる理由は何も無かった。 不用になったヘッドマウントディスプレイを外す。途端に西日が目を焼いた。 綺麗な夕日だった。夕日は驚くほどに紅く、海を茜色に染めて、地平線の向こうに没しようとしている。 千影にも見せてやりたいと思う。いいや、きっと遠いところから見ているに違いない。少し困ったような、嬉しそうな、そんな顔をして。 そしてもうすぐ、俺はその隣に行ける。 千影の影響だろうか、俺はあの世というものを信じていた。死んだらタンパク質に戻るだけなんてシニカルに考えることは元々できなかったし、あの世で歓迎パーティーを開いてくれる友人はたくさんいた。 まぁ、死後の世界がなくても、昨日までのように咲耶や千影のことを考えて心苦しい日々を送るよりはずっとマシだろう。死んで無に変えるのなら、この胸の想いもきっと無に帰るに違いない。 それにしても、夕日が無闇に紅い。 何故こんなに夕日は紅いのだろう。特に、戦闘の後に見る夕日は血の色をして見える。 科学的に考えれば、燃える新潟の煤煙が舞い上がって太陽光線の乱反射が起きているというのが模範解答だろう。しかし、それではあまりにも寂しい気もする。 その時、不意に懐かしい気分になった。そして思い出す。 『きっと、夕日がこんなに紅いのは・・・今日死んだ人の魂をいっしょに連れて行こうとしているからだ』 子供の頃に読んだ絵本に、そんなようなことが書いてあったような気がする。しかし、不思議だった。本のことなど全く忘れていたのに、どうして今になって思い出すのだろう? 暫し考えてみる。残された時間は貴重だったが、投資の価値はあった。 「そうか、これが走馬灯って奴か」 バックミラーの中で、ミサイルが白煙のヴェールを引いて迫る。 着弾まで後2、3秒といったところだろう。 けれど、そんなことはどうでもよかった。それよりも、泡のように浮かんでは消える思い出の方がずっと大切だった。 子供の頃、咲耶と出会った夏の日の情景が蘇る。 白いワンピースがとてもよく似合う義理の妹。一人っ子だった俺は妹ができたことが嬉しくて、よく遊びに連れまわしたものだった。 咲耶はいつだって控えめで、子供の目からでも必要以上に遠慮してるように見えた。きっと血のつながらない家族に遠慮していたのだろう。俺が手を引いてやらなければ、いつまでも部屋の中で勉強をしていた。 俺は、そんな他人行儀な咲耶を自然に笑うことができるようにしてやりたかった。もっとも、それが上手くいったかは判断に迷う。 おにごっこでも、かくれんぼでも、咲耶は泣きそうな顔をして俺の後をついて回るだけだったからだ。おにごっこで俺が鬼になったときでも、あいつは俺の傍を離れることが出来なった。逃げるように強く言うと、少し走って振り返り、そのまま癇癪を起こして泣き出してしまった。そのことで咲耶は中間はずれにされるようになって、ますます俺の傍から離れられなくなった。 結局、俺と遊んでいるときに咲耶が笑顔を見せたことはなかったと思う。 記憶の中に残っている咲耶の笑顔は、つまらない算数のドリルを解いて、それを母親に見せにいく時の縋るような、哀しい笑顔だけだった。 咲耶は普通に笑えるようになっただろうか、一人で幸せをつかめるほど強くなっただろうか。それだけが心配だった。 「強くなったな・・・咲耶・・・」 その戦闘センス、テクニックにはもはや脱帽するしかない。仮にこうした形を採らなくても、後数十手先に詰まれていただろう。ほぼ確信に近い確かさでそれは直に分った。なぜならF4ファントムに乗っていたころから、その才能の開花する様を見てきたのだ。 そして、それを思い出すたびに夢に思う。もしもあの時、種子島や佐世保沖で俺が本気になってリボンつきを潰していたらどうなっただろうか? きっと千影は死なずに済んだに違いない。もしかしたら、この戦争も随分と変わった結末になっていたかもしれない。 けれど、成長したリボンつきとの対戦を夢見ていた俺はあえて咲耶を見のがして、その結果今日がある。 千影を死んだ責任は俺にもあるのだ。殺したの咲耶だが、それを一方的に責めることは俺にはできない。その権利はない。 そして、全てはもう終わったことだった。 今はただ、自分の前に出られるほど妹が強くなったことが嬉しかった。 だから、もう 「お兄ちゃんはいなくてもいいよな。千影、俺はもうそっちにいってもいいよな」 ミサイルが迫る。飛んでくるミサイルはまるで槍のように見えた。 瞳を閉じる一瞬、空に月が見えた。 紅い夕日を見送るように、東の空に月がある。 白い、白銀の輝きが映えるのはもう夜の帳が下りた空だ。猫の目のような楕円の月はまるで肌の白い千影の横顔を思わせた。 優しい、透き通るような月の輝き。蒼く澄んだコバルトの夜空。月はまるで貞淑な紺色のドレスに輝く白金のブローチだ。 目を奪われ、魂まで奪われそうだった。 何故、今まで気がつかなかったのだろう? 「あぁ・・今夜は―――こんなにも、月がキレイだ」 衝撃が走り抜ける。 ベルクートは機体を砕かれ風に溶ける。俺の意識もまた、風にさらわれるに消えていく。まるで風に攫われる木の葉のように。 キャノピーが砕け、冷たい高空の風が吹き込む。凍てた風に体が身構えた。 けれど、それは杞憂だった。吹き込む風はとても温かかった。まるで、誰かに抱かれているような、そんな温もりがある。 不意に鼻をくすぐる懐かしい匂い。 それは最愛の女性が好んだ香水の香りだった。 控えめで、それでいて強く印象の残るその香りは彼女によく似合っていた。 首筋を撫でる柔らかな髪、そして微かなシャンプーの匂い。全て体が覚えている。 背中を抱かれていた。まわされた手を、繊細な、細い百合のような手を握る。 「千影・・・ありがとう」 浮遊感、落ちていく。 閉じた瞼の裏に月が映った。 それはまるで水面に浮かぶ月のようで、俺は水面の奥に落ちていく。 遠ざかる水面の月。けれど、恐怖はなかった。 繋いだ手が離れることは、もう永遠にないのだから。 ILS誘導を受けてシルフィードは軽やかに着地した。 その後もフルオートでタキシングして管制塔からデーターリンクで指示されたバンカーへ向かう。 かしこい戦闘機だな、と衛は思った。着陸ならさくねぇよりも上手い。 滑走路では誘導灯が闇の中で宝石のように輝いていた。いつもなら、それを眺めてちょっとうっとりしちゃうんだけど、今日はそんな気になれない。 もう太陽は地平線の彼方で、夜空には太陽に変わって月が出てた。 ひらっきぱなしにした無線からはひっきりなしに歓声や弾んだリズムの軍歌が流れてくる。それをBGM代わりシルフィードは無言で誘導路を進む。 あの最後の空戦から、10分もしないうちに戦争は終わった。新潟防衛軍が降伏して、その後すぐに東日本政府も停戦に応じた。2年も続いた戦争の幕切れは拍子抜けするほどあっけなかった。 もちろん勝利は文句なしで連合軍のものだった。だけど、シルフィードのコクピットの沈黙は勝利からはほど遠い。 そっちの方が辛いなと、ボクは思う。 泣くことで楽になることはたくさんある。けれど、泣くことができない、泣くことを禁じてしまうことが稀にある。 例えば、肉親を手にかけたりしたときのような。 涙を流すには、罪悪感の棘はあんまりにも痛すぎて・・・泣くことさえ忘れてしまう。 シルフィードはバンカーへ。停止前にきちんと排気してエンジンを停止する。何から何まで関心するほどおりこうな戦闘機だった。 けれど、さくねぇにかける言葉を捻りだせるほど賢くはない。 だからこそ戦争には人間が必要なんだろう。けれど、かけるべき言葉が見つからない。 沈黙が為すがままにキャノピーが開いて、夜風が流れ込む。春の匂いがする暖かな風。その風は包み込むように優しい。だけど、微かに潜む冬の残滓が不意に肌を刻むこともあった。 風に吹かれるまま、ボクもさくねぇもシートに体を預けたまま黙り込むだけだった。バックミラーに映ったさくねぇは虚ろに視線を落とすだけで、瞳に光は見つからなかった。 結局、かける言葉は見つからなかった。 その代わりに、タラップを勢いよく昇ってきた同僚のパイロットがさくねぇに言った。 「メビウス1、ブリーフィングが始まる。直に来てくれ」 「ちょっと待って。ブリーフィング?戦争は終わったんじゃなかったの?」 俯いたまま何も言わないさくねぇの代わりに言った。 戦争は終わったのに、どうして今更ブリーフィングをしなければならないのだろう?これから戦勝パーティーを開くなら話は分るのだけれども。 「詳しいことはブリーフィングで説明があるそうだ。とにかく、急いでくれ」 ボクの当然の疑問に答えず彼は言った。 その顔はまるでムンクの叫びように、必死な形相だった。ようやく、様子が普通じゃないことに気付く。 「・・・・何があったの」 彼の叫びに心を動かされたのか、さくねぇは呟くように言った。 「まだよく分らない。ただ、これだけは言える」 彼はもったいぶるように言葉を切った。 けれど、後になってボクはそうではなかったことに気付く。 彼はもったいぶったのではなくて、その先の言葉の意味を考えて脅えていたのではないのだろうか?事実を知った時、ボクも心の底から脅えることになったのだから。 けれど、その時ボクはそれを知らなくて、彼の言った言葉を半信半疑で聞いていた。 「メビウス1、急いでくれ。世界の危機だ!」 それがボクたち2人の、最後の戦いが始まる合図だった。 ミッション15bへ戻る 書庫へ ラストミッションへ |
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