ACECOMBATSISTER
shattered prinsess
エースコンバットシスター シャッタードプリンセス
ミッション14 大阪、解放〜EMANCIPATION〜 2001年12月23日 午後10時50分 大阪 「作戦空域に入ったデス。まもなく大阪の灯火管制がレジスタンスの手により解除されマス。市街地の敵戦力を掃討してください!」 無線封鎖が破られ、突然の四葉ちゃんの声が静寂になれた耳に染みた。 咲耶は空を見上げる。猫の目のような、歪んだ半月が夜空に鋭く自己を主張している。 夜間飛行、夜陰に紛れてイーグルは夜空を飛んでいた。 ダークグリーンの迷彩は夜の帳に内側に、コクピットから翼端は視認できないほどの闇に紛れている。衝突防止のために点灯してあった翼端灯だけがぼうっとオレンジの光を放っているから、そこに主翼があると分る程度だった。 そのオレンジの光の向こうには、同じオレンジ色の光が間をおいて群れている。総勢2個小隊、8機の攻撃隊がストライクイーグルを先頭に大阪を目指していた。 「静かね・・・・」 「そうだね、対空砲火もないし」 私の独り言に律儀に衛ちゃんは答える。 昼間の激しい航空戦が嘘だったかのように、夜の大阪は静まりかえっていた。 最初にSAMとFLAKの洗礼を受けた以外は、紀伊半島の山だけが障害となった。その障害が対空砲火から攻撃隊を護ってくれていたのだが、そこまでは思い至らない。 夜間のNOE飛行、しかも攻撃隊のほとんどがまともな地形追従レーダーやLANTIRNを装備していないという状態でなければ、気付くこともできただろうが。 「なんというか・・・事故がおきなかったのが不思議でならないわ」 「みんなベテランだからだよ」 一機も欠けることなく、ストライクイーグルに続く攻撃隊を見て、溜め息を漏らす。 先行するイーグルの翼端灯だけを目印にNOE飛行。自分がその立場に立たされたとしたら、どうするだろうか?・・・・・とりあえず、神様を呪う。 「メビウス1より、攻撃隊各機へ。高度3000まで上昇」 操縦桿を握りなおして、静かに引いた。 それに答えてイーグルは高度をゆっくりと上げる。オレンジ色の翼端灯の群が同じようにして高度を上げる。 高度3000、星が綺麗だった。 戦争中であるせいか、人の明かりはない。送電が停止されているのか、それとも灯火管制なのか、どちらにせよ人の明かりがない分、星々の弱い瞬きがよく目に入る。 そういえばお兄様といつか見上げた夜空もこんな風だった。 青空とは違う、星の賑やかな夜空。冬の星空。 都会の明るい夜空しか知らない私には、今日の夜空は眩しすぎる。 不意に冷気が染みこんだ。寒い。今が12月であることを、さらに今日がクリスマスイブであることを思い出す。 「神様、聖夜を汚す愚かな私達をお許しください。これから死ぬ人々が迷わないように、どうか神の家へお導きください」 と、衛ちゃん。 「お祈り?」 「うん、さくねぇは?」 衛ちゃんは銀のクロスを掲げて見せてくれた。 それを見て首を振る。 私はとうの昔に祈りを捧げる神を見失っていた。 軽く息を吐いて、HUDに視線を向ける。 輝度を最低にしたウイスキーマークの向こうに大阪がある。目は闇に慣れきっていた。 月明かりに照らされて、巨大な大阪の輪郭が浮かびあがる。 それはまるで、滅び去った古代の遺跡であるようで、死んだ静けさを湛えていた。深海に沈んだ沈没船の沈黙に似ているかもしれない。 「ゼロアワー、灯火管制解除デス!」 航空時計が0時を刻んだ。 街に光が蘇り、そしてそれは解放のための希望の光となるはずだった。 けれど、大阪は闇に沈んでいる。希望の光はどこにも見えない。 「どういうこと!?」 「わ、四葉に訊かれても分らないデスよ!」 RWSが騒ぎ始める。素早く衛ちゃんがECMパネルを操作して、ミュージックをスタート。敵のレーダーをジャミングする。 けれど、目視のAAAはそれとは関係なく口火を切った。 曳航弾の光が鎖のように空へ伸びる。とても数え切れない。 砲火のマズルフラッシュが大阪のそこかしこで瞬く。それは星の瞬きとは似ても似つかない、凶悪な光だ。 あの静けさが嘘のように、曳航弾の光が夜空に交錯している。 「全機、離脱。緊急退避!」 真っ先に翼を翻して、インカムに怒鳴る。 これではとても攻撃など無理だった。攻撃隊の主力はF−20とミラージュ2000、どちらも廉価であることが売りで、電子戦装備はそれほどでもない。 実際、ストライクイーグルのような最新鋭機は少数派で、戦力の大半は中古のF−16かミラージュ2000、F−20で構成されている。 どれもそれなりに夜間攻撃はできるけれど、とても市街地の敵をピンポイントするなんて無理だった。 それを補うための灯火管制解除、けれど・・・誰かがドジを踏んだのだ。 「どうする?メビウス1」 「一旦離脱するわよ、フェルビンゴまで粘りましょう」 安全な空域など、敵地上空では望むべくもない。一旦海へ出ることにした。 振り返る。まだ別働隊が粘っているのだろうか、対空砲火は衰えることを知らない。レーザー誘導爆弾を誤魔化すデコイのレーザー光が夜空に乱舞している。 曳航弾の光はまるで千条の鎖のように私には見えた。 鎖は冷たく重く、縛り付けられた大阪に街の光は見えない。 2001年12月23日 午後11時5分 大阪 「中央区は何故動かないんだ!?」 「それをいうなら、あんたの浪速区の方がだって灯火管制を解除していないぞ」 「他人の区を心配する前に、自分のところをどうにかしろ!」 「それはこっちのセリフだ!」 あわや取っ組みあいの喧嘩が始まる寸前で、それぞれのレジスタンスチームのスタッフがリーダー達を引き剥がします。 「2人とも、落ち着いてください!」 今や数分前の静かな緊張はどこへやら、下水道地下のレジスタンス司令部は混乱の坩堝へ放りこまれていました。 ・・・・いえ、まだこれでも良いほうなのかもしれません。 退役軍人をメインにしたところで、大半が素人の抵抗組織がここまでやれたこと自体が奇跡みたいなものなのですから。 「やっぱり、荷が重かったのかしら・・・」 大阪最大の情報収集センターであるBar『スカイキッズ』のマスターにして、東淀川区レジスタンスチームのリーダーまで務めている鞠絵は溜め息をついて言った。 昔、公安調査情報庁(SRI)にいた経験を買われてついたポストですけれど、完全な素人を率いて情報戦、抵抗戦を行うことがどれだけ難しいか、この1年で思い知らされたはずなのに、まだ詰めが甘かったようです。 「そっちが、先に管制を解除すればいいんだ!」 「ふざけけるな、あんた達が先に解除しろ。そうしたら、俺達もそれに続く」 日本の、というよりも世界のどこでも責任が付きまとう場面で必ず見つけることができる人間の弱さ、あるいは醜さ(この表現は大衆受けするが、あまり適切ではない)がストレートに垂れ流しにされていました。 それを傍観して日和見を決め込むその他大勢。 その先に待つものが、夜明けを待たずに行われるだろう憲兵の掃討戦であったとしても、彼らは死ぬ間際まで自分の死を他人の責任だと信じて疑わないでしょう。憲兵に後ろから頭蓋骨を撃ち抜かれて初めて死が自分の責任だと気付くのでしょうが、それでは遅すぎますし、滑稽すぎます。 とりあえず、私の人生の予定表には今夜死ぬ予定は入っていません。 「ねえさま・・・」 不安そうな目をして、白雪ちゃんが袖を引いていました。 白雪ちゃんは私の片腕としてスカイキッズで黄色中隊の情報を集めてくれた(さらに滑走路を爆破さえしてくれた)ベテランのシーカーですけれど、流石に状況の悪さに震えていました。私も人目がなければ叫び散らしているところです。 もちろん、何を言いたいのかはちゃんと分っていますよ、と笑顔で返します。 このまま終わるつもりはありません。 「ちょっとよろしいですか?」 手を上げると奥に陣取る黒ずくめの集団から一斉に視線が飛んできます。 数多い西日本の特殊部隊でも最精鋭の国境警備隊第9大隊(GS9)としては、これ以上飼い主が馬鹿げた騒ぎを起こすのは勘弁してもらいたいと思うのは最もことですし、私もこれ以上時間を無駄にするつもりはありません。 数ある視線の中から、特に知り合いのだけを選んで返します。 東日本でイリーガルな任務に就いていたころ、一緒の仕事をした懐かしいメンバー達が頷き返してくれます。確かな信頼がそこにはありました。 「あら〜何かしら、まりえちゃん?」 どこか脳が溶けそうになる声で言うのはレジスタンスのリーダーの佐伯さんです。 「現状を打破する方法が一つだけあります」 「それは・・・是非ききたいですね〜ラフティング・パンサー」 人生オールウェイズスプリングな笑顔。これが元陸軍大佐で、素人同然のレジスタンス組織をここまで引っ張ってきたリーダーだと言ったら、誰が信じてくれるのでしょうか?それでも、SRI時代のコードネームで私を呼ぶ佐伯さんは、確かに抵抗組織のリーダーで、昔の私を知っている数少ない生き残りです。 そして、大阪解放作戦「SNOW」を立案したものこの人でした。 見るからに頭の軽そうな人ですが、私はそれが彼女一流のカモフラージュであると知っています。 「既に、ここのいる全員がご存知の通り、私達の作戦は失敗しました。これは作戦そのものの誤りではなく、私達の努力が決定的に不足しているからです」 「努力の不足だと!」 「安藤さんはしばらく黙っていてください」 と遮るのは、笑みを消した佐伯さんでした。 顔にいつでも張り付いている笑みがなくなると、佐伯さんがどういう世界で生きてきた人間なのかよくわかります。 それは獲物を前にした猛獣のようであり、あらゆる手管手練に通じた爛れきった淫売のようであり、或は曇りなく透きとおる殺意の塊なのかもしれません。 「話を続けます」 石のように固まった哀れな被害者を横目に、SRI時代に覚えた精神制御技術で溢れ出しそうな恐怖を消して、また言葉を飛ばします。 「なぜ灯火管制が解除されないか、それは管制を解除するのがそれぞれ市民個人の手に委ねられているからです。いくら私達が電力供給を回復させても、それぞれの大阪市民がスイッチを入れなければ、街の灯火が蘇ることはありません」 「つまりは・・・勇気が不足しているということ?」 「文学的な表現を用いれば、その通りです。街灯などは東日本のコントロール化にあります。高層ビルもです。コントロール下にない民家の明かりに期待する以上、彼らの背中をもう一押しする必要があります。憲兵や国家保安省(NSD)の弾圧が既に過去のものであることを伝える必要があります」 「どうやって?」 問う声はどこまでも冷静そのものです。 冷静すぎて、まるで自分の全てが吟味されているような、咀嚼されているような、そんな錯覚さえ覚えるほどでした。 「方法は一つだけです。手持ちの戦力を全て投入して、ラジオ大阪のスタジオを奪還、ラジオを使って大阪解放を呼びかけるのです。テレビ局は戦闘で破壊されてしまいましたが、ラジオは東日本のプロパガンダ放送のために設備が生かされています」 「だけど、あそこには戦車隊が展開しているわ。ラジオ局が占拠されたら必ず救援にくる。手持ちの火器でどれだけ対抗できるか分っているの?」 話にならないといった調子で佐伯さんは言います。 私は一瞬、何を言われたかわかりませんでした。 何時の間に、この人はこんな馬鹿になったのでしょうか? 「灯火管制が解除されれば空軍がなんとかしてくれるはずです。それに最初から失敗すると決め付けるような臆病者はこなくて結構です」 俄かに空気が殺気立ちます。 佐伯さんも、顔から容赦を消し去っていました。研ぎ澄まされた切っ先のような目で弄られただけで心臓が止まりそうになります。 けれど、もう後には引けません。 「私は無茶な作戦には賛成できないと言っているだけよ。あなたは手持ちの戦力全てというけれど、失敗したときのことを考えているの?」 「既に私達は失敗しています。これ以上失敗する余地はありません。最初の作戦の失敗で市民の心は私達から離れています。今夜中にこれを挽回できなければ、私達は明日の夜明けを見ることなく、尽く殲滅されるでしょう。一度失敗した私達をもう誰も信用しないでしょうからね」 「けれど、作戦を強行すれば、耐えられないほどの犠牲がでるわ。ここで戦力をすり減らしてしまっては・・・」 佐伯さんは現役時代が嘘だったかのように、言い澱みます。 私はそれを遮断するように激しい勢いで言葉を重ねました。 「だから何だというのです!もう私達に無傷でこの場を凌ぐ手なんて何一つ残されていないのです。だったら、少しでも明日がいい日になるように最善を尽くすべきでしょう。ことごとくを血の海に沈め、屍で山を築くことになっても私達は進まねばなりません。大阪は大阪に住む私達の手で解放しなければならないんです!今大阪を解放しなければ、永久に大阪はこの一年を繰り返し、二度と前進することはないでしょう」 「その結果・・全てが灰になっても?」 佐伯さんはまるで難解な数学定理の答えを確認するような、確信の冷静さに満ちた口調で言いました。 「そうです。全てが灰になっても、です」 それっきり、アジトに沈黙の帳が下ります。 私も、佐伯さんも血液中のアドレナリンを除去するのが精一杯でそれ以上口を開くことなどできそうになりませんでした。 蛍光灯の安っぽい光が白々しく部屋を照らして、沈黙の影をより暗く浮き彫りにします。 圧し掛かるような重い静寂。 いつになく興奮した私の荒い息だけが響くようでした。 心臓が弱かった子供のころを思い出します。あのころはこんなに自分の意見をはっきりいうことなどできませんでした。そんな自分がじれったくて、嫌でしょうがなかったことを思い出します。でも今はあのころが一番幸せだったかもしれないと思うことがあります。 弱かったころの自分に逃げ場を求めることができるぐらいには強くなったということでしょう。 けれど、もう心臓を理由に逃げることも隠れることもできません。 私は今ここで、そこにあるが故に、そうしなければなりません。 プルトニウムで動く心臓を得た時、自分の力で生きていくことを決めたのですから。 「なるほど・・・全てが灰になっても、か・・・ようやく思い出したわ。死ぬことも軍人の仕事の内だったわね」 佐伯さんはそう言って晴れやかな笑みを浮かべました。 私はそれに笑い返すことはしませんでしたが、驚くべきほどに静まりかえった司令部を見回した時、密かに佐伯さんに感謝しました。 もしかしたら、私は騙されていたのかもしれません。・・・いえ、確かに騙されていたのでしょう。あえて愚物を演じることが、時として最良の結果を引き出すこともあるのだと、本で読んだことはありましたが、実体験は初めてです。 「まあ、それほど悲観することはないかもね。地下鉄中央線を使って地上の連中にも見つからずに移動できる。弁天町駅からラジオ大阪本社までは歩いて5分、というわけでしょう?ヘルズ・ブラック・ウイッチ」 「それは昔の名前ですわ」 「いいえ、あなたは何も変わっていないわ。あなたは昔と同じ、日本で一番危険な女よ」 くすくすと嗤って、佐伯さんは元の軽い笑顔を顔に呼び戻しました。 「そういうわけで〜みなさん〜まりえちゃんの意見に反対の人〜」 深とした沈黙が答えだった。 「では、まりえちゃん。GSのメンバーといっしょにラジオ大阪に向かってください。他のメンバーはそれをサポート、大阪解放まであと一踏ん張りです。がんばりましょ〜」 佐伯さんがパンパンと手を打って、解散となりました。 全ての混乱は潮が引くように収まり、それぞれがそれぞれの成すべきことにとりかかります。流れるような機敏な動作で武器が手渡され、弾薬が配られました。どこに隠していたのか、携帯SAMやカールグスタフ、RPG、キャリバー50、なんでもありです。出し惜しみはしません。弾薬も、それ以外の全ても。 例えその全てを失っても、大阪を解放することができれば私達の勝ちです。 「皆さん、今夜はクリスマスイブです。バーからシャンパンを持ってきました!」 重苦しい空気を破って歓声があがります。 残念なことにシャンパングラスなんて洒落たものはありませんでしたが、人数分のコップやグラスは用意できました。 完全武装のGS9や思い思いの格好でこの戦いに望んだレジスタンスの仲間がまちまちのマグカップやグラスを手に神妙な顔をしているのはシュールですが、同時になんだか嬉しくもあります。 自分が独りではないと、多くの人間が本気で大阪を解放したいと思っていると確かに実感できた瞬間でした。 「これは末期の酒なんかじゃありません。まだバーにはまだいっぱいお酒が残っています。全員無事に帰って、バーのワイン倉庫を全部空にしてしまいしょう。私はそれができると信じています」 おそらく、自分も含めて二度とここに戻ることのない人々を前にして、私は当てのないことを言います。 こんなことを言ってしまって大丈夫だろうかと、一瞬の後悔。 けれど、顔を上げた時に返ってきたのは静かな微笑みでした。 邪気のない微笑み。その場にいた全ての人々が笑っていました。声もなく、何が面白いというわけでもなく、けれど確かに顔には笑みが刻まれていました。 不意に涙腺を襲う衝動に耐えて、 「乾杯!」 高く上げたグラスが薄暗い蛍光灯に反射して、安っぽい輝きを瞼に残します。 微かに喉を焼くシャンパンのアルコール。胃に滑り落ちていくシャンパンが心に残った残り滓も全て洗い流してくれるようでした。 一瞬の交感が終り、後に残るのは確かな意思を秘めた沈黙です。沈黙の内に全てが進行します。もう振り返ることはありません。 ・・・いえ、たった一つだけ残っていました。 「・・・白雪ちゃん」 「いやですの。白雪もいっしょに行きます」 私のG3を抱いて白雪ちゃんは言います。 「今度は誰もいない滑走路に爆弾をしかけるのとはわけが違うの、聞き分けてちょうだい」 「でも・・・」 「はっきりと足手まといって、言ってほしいの?」 私は俯く白雪ちゃんからG3を取り上げました。 マガジンをリリースして弾丸がフル装備されているか確かめます。マガジンを戻してチャンバーに初弾を送り込んでコッキング。ずっしりと重い安定感があります。今は亡き西ドイツが生み出したオートマッチクライフルの最高峰。但し、フルオート射撃は反動が大きすぎるので、外してあります。けれど射撃精度は世界最高です。 私は俯いたままの白雪ちゃんを抱きよせました。 柔らかな温もり。偽りの家族だというのに、この温かな優しさはどうしたことなのでしょうか? この温もりを手放すことは辛すぎました。 「これでお別れってわけじゃないから・・・でも、もしもの時は雛子ちゃんをよろしくね」 「必ず帰ってくるって・・・約束してくださいの」 「じゃあ、指きりね」 おずおずと差し出された小指に指を絡めます。 ゆびきりげんまん、うそついたら、はりのます、ゆびきった。結構恐ろしい言っています。絡んだ指を離して、そう思いました。 離れた指先には小さな雫、零れた涙がコンクリートの白い床を黒く湿らせています。 「・・・気をつけて帰りなさい」 そっと白雪ちゃんの涙を拭って、そして白雪ちゃんが私の涙を拭って、もう一度抱きしめて、それでも足りなくて頬にキスをして、それでも伝えきれないものを心の奥へ押し込めて鍵をかけました。 「はいですの・・・」 3歩進んでは振り返り、また3歩進んでは振り返る。白雪ちゃんが角の向こうに消えるまで随分と時間がかかりました。 白雪ちゃんの姿が見えなくなるのを待って、佐伯さんが言いました。 「良い子ですね〜」 「あの・・・先ほどは・・・」 「いいのよ」 何も言わなくていいと、見上げた佐伯の目は言っていました。 「はい・・・でも、私は白雪ちゃんに酷いことをさせてしまいました」 「黄色中隊のことですね・・・」 佐伯さんの一言で、一瞬だけあの人の横顔が脳理に浮かび、そして沈んだ。多くの同胞を殺めた憎き敵であるはずの黄色の13。 大阪を蹂躙した彼らを私は許すことはできません。 けれど、私はあの人の悲しみを知っていました。 どうしようもない喪失に耐える人間の、影のある横顔。毎晩バーの奥で掻き鳴らすギターの哀しい音色。 あの人は言いました、 『Look、賞賛に値する敵だ。敵にもこういう奴がいる。こそこそと破壊工作を繰り返す、胸糞悪い奴らだけじゃないんだ』 あの人が指指すのは黄色の4を撃ち落した西日本のパイロットを称える記事でした。新聞の写真の中で笑うパイロットは、どこかあの人に似ていました。 その時私は、もう永遠にあの人に笑顔を向けてもらう権利を失ったと悟ったのです。 それは・・・白雪ちゃんも同じでした。 けれど、それが嘘でも、偽りでもいいから、白雪ちゃんや雛子ちゃんだけにはこれまでのように笑顔を見せて欲しいと思うのは、私のわがままなのでしょうか。 そして、自分にももう一度だけでも笑いかけて欲しいと思うのは、罪でしょうか。 「そろそろ、行きます」 「ちゃんと帰ってくるのよ。しらゆきちゃんやひなこちゃんにはまだあなたが必要よ」 「分っています・・・それと、すみませんが・・・その拳銃ベレッタですよね。貸してもらえませんか。白雪ちゃんにPPKを貸したまま忘れてしまったので」 「いいけど・・・」 しっかり使い込まれた佐伯さんのベレッタ92Fを空のホルスターに収めます。 「では、また後ほど」 「ちゃんと返すのよ」 彼女にしては珍しい、厳しい響きを持った言葉はドアを閉める音に遮られた。 返事は、無い。 2001年12月23日 午後11時25分 大阪東淀川区 「あ・・・」 突然の爆音に白雪は振り振り返った。 ビル街の向こう、港の方の空が赤く染まっています。それと砲声の連打。甲高い、独特の高い音のする砲声は初速の速い戦車砲独特のものですの。 戦闘が始まりました。きっと、戦っているのは鞠絵あねさまですの。 「あねさま・・・」 自分ひとりだけが戻ってきてしまいました。 ほんとは白雪もいっしょに戦わなければならないのに。 白雪だって、銃の撃ち方も爆弾を扱い方も知っています。足手まといなんかに絶対にならない自信はありました。 それに・・・ 「いっしょに・・・行けばよかったのですの」 暗い、街灯のない道の向こうにはスカイキッズがあります。雛子ちゃんがそこでレンジスタンスの仲間と一緒に待っているはずでした。 それはどうしようもなくスカイキッズにいた白雪達が何者であるかを雛子ちゃんに雄弁に語るでしょう。そして、帰ってきた白雪に雛子ちゃんが何を言うかは考えなくても分ることですの。 思い出したくないことが次々に浮かんでは消えました。 白雪が滑走路を爆破したこと、さらにエンジンを破壊したこと、その所為でエンジントラブルが起きて黄色の4だった千影さんが死んだこと。 そして、泣きはらす雛子ちゃんにかけた慰めの言葉。 白雪に雛子ちゃんを慰める権利なんてありませんでした。だって、白雪が千影さんを殺したようなものだからです。 なのに白雪は 「きっと、千影さんは神様に召されたのよ・・・」 と、随分前に雛子ちゃんに言ったセリフでした。 お笑いですの・・・どうしようもなく戯言ですの。 「帰れません・・・白雪は帰れませんの」 このまま平気で帰ることができるほど、白雪は終わっていません。 「どこへ帰るって?」 冷えた金属の固さを背中に感じましたの。 無言で、動くなと言われます。動けば撃つと、微かに響くライフルの金属音が言っています。もしも反射的に振り返っていたら、背後の兵士は躊躇いもなくトリガーを引いたでしょう。 「外出禁止令が出ていることを知らないわけじゃないだろう?」 あまりの自分の迂闊さに、舌を噛み切りたいという衝動に駆られますの。 けれど、これぐらい諦めていてはレジスタンスは勤まりません。 震えそうになる肩を静かな深呼吸で押し止めます。ミスをした分を取り戻すプロの野球選手のように素早く思考を切り替えますの。 「ゆっくりとバスケットを下せ、ゆっくりとだ」 バスケットの中にはグロック17が入っています。他にもグレネードと発炎筒も。 武器を失ってしまうことは痛いですの。けれど、バスケットを下した時に地面に移った影を見ることができたのは大きな収穫でした。 兵士の数は3人。拳銃なしで相手をするのは少々厳しい数ですの。 「左手で、腰のホルスターから銃を抜け。これもゆっくりとだ」 「よく気がつきましたの」 これは本心からの一言でした。 ゆっくりと、言われたように服の下に隠してあった腰のホルスターから銃を抜いて、ゆっくりと手放しますの。 「ゆっくりと、こっちを向け。妙なことをしたら撃つ」 「・・・これでいいですか?」 「いいだろう・・・ガーターからナイフを抜いて捨てろ」 これは意外です。 どうしてガーターベルトに挟んでおいたナイフに気付かれてしまったのでしょう? 「振り返った時の体の動きで分るんだよ」 と、親切にも憲兵の一人が教えてくれました。 得意そうな、もう勝ったとでも思っている顔ですの。 「お前は黙っていろ。いいか、ゆっくりとナイフを抜いて捨てろ」 「分っていますの」 ゆっくりと、慎重にスカートを捲り上げます。 毛糸のパンツを穿いていておけばよかったと思いました。 「これでいいですか・・・」 捲り上げたままのスカートに視線を隠して言いました。 赤く熱くなった頬が北風に冷やされて気持ちを落ち着かせてくれますの。 「なぁ・・ちょっとだけ―――」 「何度も言うがお前は黙っていろ。ナイフを捨てろ、ゆっくりとだ」 露骨にイヤらしい視線を送ってくるのは、さっきの親切な憲兵でした。 「わかりましたの・・・」 白雪は俯いたままナイフを抜いて、唐突にそれは風を切った 一切のリアクションもなしに、ナイフは憲兵の心臓を貫く。スペツナズナイフは完全にその奇襲機能を発揮していた。 心臓を貫かれた男は即死、崩れ落ちる。3人の内白雪をポイントしていたのはその男だけだった。一切の呪縛が消える。白雪は疾走。 瞬間、白雪の姿は完全に2人と男の視界から消えていた。地面スレスレを掬い上げるような一撃。軸足がアスファルトを踏みしめる。目もくらむ奇襲速度はトップからローへ、ただ右足だけが速度を破壊に代えて唸る。蹴音。 鉄筋と鉄板を仕込んだブーツは確実に憲兵の股間を捉えていた。白雪の縞パンに激しく性的欲求をたぎらせていた男の股間はただの肉塊に変わる。雄は同情故に絶対不可能なほどの容赦ない破壊。 骨盤まで破壊された憲兵は崩れ落ちる。白雪は突進、背後へ回り込む。同時に男のホルスターからマカロフを引き抜いた。 股間を血まみれにした憲兵の襟を掴み上げる。銃声、憲兵の体が震える。痙攣する憲兵の向こうには、いろいろとおしゃべりなあの親切な憲兵がいた。最後の憲兵はAK74のトリガーを引く。鈍い衝撃、盾が手を振り回して暴れる。だが白雪は慌てない。冷静に、それこそ看護婦が患者に注射をするかのように、冷静に照準。銃声は1回、廃莢は2発。一発目の弾丸が憲兵の額に食い込み、小さな穴を開ける。2発目の弾丸も同様だった。そして、2発ともその何倍もの大きな穴を開けて憲兵の頭蓋から飛び出す。 真鍮の薬莢がアスファルトに落ちて乾いた音色を響かせる。続けて肉の倒れ潰れる不快な響きが白雪の耳朶を打った。 盾代わりに使った憲兵から手を離す。トマトを潰すような水音。ボディーアーマーも至近距離からの5.45ミリ弾には耐えられない。 「戦争をしっかり勉強できましたか?」 幸いにも、返り血はほとんど浴びていませんでした。 けれど、一度この静かな夜に響いた銃声を消すことはできません。 犬の鳴き声と、人が走る音が聞こえますの。 「・・・失敗ですの」 命がけの鬼ごっこの始まりです。 役目を果たしたマカロフを捨てて、鞠絵あねさまのワルサーPPKを拾い上げます。初弾はもう装填してありました。 最近は向こうも地理に詳しくなっているので、逃げるのは至難の業ですの。 でも、レジスタンスたる者最後まで諦めてはいけません。それに、また間抜けな憲兵が追いかけてきてくれるかもしれません。 歩きなれた街角を曲がると、静まりかえった夜の街が広がっていました。昼間とはまるで態度の違う夜のビル街。長く光ることを忘れた街灯が寂しげに立ち尽くしています。 最初の1歩を踏み出すと、後は止まりません。 走り抜ける白雪の息は煩いぐらいで、どこまで走っても暗い街は終りが見えません。 まるで終りのない悪夢を見ているような、けれど吹き出る汗はどこまでもリアルで、自分だけこの暗い街に閉じ込められてしまったようで、わけもなく泣き出してしまいそうでした。 砲声はまだ鳴り止みません。 銃声と、人の足音、犬の鳴き声が近くに聞こえます。光を失った夜のビル街はまるで墓場のように静まりかえっていました。 だから無遠慮に車の扉を開く音はよく聞こえました。バックステップ、クイックドロウ。 白雪は抜き撃ちも自信がありましたの。 でも、トリガーを引くことは出来ませんでした。 なぜならば・・・ 2001年12月23日 午後11時37分 喪失にはもう慣れていた。 始まりがあれば、終りがある。当然の摂理だ。始まれば、いつか終わる。どんなものでも最後には失われる。 それが戦争中なら、なおさらのことだ。 俺は・・・この戦争が始まってから失ったものが多すぎて、もう数えるのをやめていた。 何を失ったかさえも忘れてしまえば、どれだけ楽だろうかと何度考えたか分らない。 気の良い部下、自分を鍛え上げてくれた先輩、それなりに悪くない空軍の生活、ほんのちょっとした変化さえ新鮮に感じられた平凡な日常、平和な空、誰よりも愛した人、千影。そして唯一の肉親、咲耶。 もう失うものなど何もないと思っていたのだが、まだ失うものがあったらしい。 新鮮な驚きだった。 それくらいに、それは意外な方向からやってきて、鮮烈に目の前に存在した。 黒々とした銃口、それを支える小さな手。その手は震えている。 銃口の向こうには、目を見開いた白雪ちゃんがいる。そこで思った。一体俺は今どんな顔をしているのだろうか。 きっと、白雪ちゃんなら知っているだろう。けれど、それを問う言葉が見つからない。 「にいさま・・・」 やっとそれだけ彼女は言った。 「そうか・・・そういうことだったんだな」 最早、自分を騙す必要はなかった。 中隊の滑走路が爆破されたときから燻り続けていた疑念はキレイさっぱり消え去った。一番確率の高い、一番あって欲しくない選択肢だけが後に残った。 それは今まで懸命に否定し続けた選択肢だった。 何故ならば、それが本当だとしたら・・・これまで彼女達と一緒に過ごしてきた時間全てを否定しなければならないからだ。 失うことには慣れていた。けれど、裏切られることには慣れていない。 「答えて欲しい・・・」 けれど、どうしても訊かなければならないことが一つある。 「何故俺を狙わなかった・・・千影のエンジンを吹き飛ばす必要なんてなかったはずだ。そんなことをするよりも、俺を狙った方がずっと容易いはずだ」 答えは無い。 答えがないのが、答えだった。 開けっ放しの車のドアが軋んで、つけっぱなしのカーラジオだけが沈黙を雑音で埋める。 彼女の目に溜まった涙。その意味にずっと前から気付いていないわけじゃなかった。いや、ずっと前から知っていた。 千影を見る時の彼女の嫉妬に狂った眼差し、少し注意すれば誰だって気付く。俺は気付いていても、何もしなかった。 その結果が千影の死ならば、結局全ては俺の責任ということになる。 俺は腹腔から重い息を吐き出した。 彼女に俺は殺せない。だが、千影は殺せるということなのか。 怒りはなかった。けれど、何もしないではいられなかった。撃たれるとは考えつきもしない。今にも落としてしまいそうなほどに震える手から銃をもぎとるのは簡単だった。 そして、俺は――― 「おにいたま!」 弾かれたように、彼女は飛び退った。 その声のした先には、久しぶりに会う愛しい子がいる。 久しぶりなんておかしいはずなのに、この出会いは確かに久しぶりだった。 「ヒナ・・・」 目に涙を貯めてヒナは俺を睨んでいる。 分らない。 どうしても分らない。どうしてヒナは俺をそんな目で見るのだろうか。どうしても分らない。 答えは一つしかないのに。どうしてもそれを認めるわけにはいかなかった。ヒナが俺と千影の向けた笑顔に他の目的があったなど、どうあっても認めることはできない。 千影の遺物、日記。そこに走り書きされたヒナと俺と千影でつくるはずだった幸せの設計図。それが千影の片思いに過ぎなかったなど、俺には耐えられない。 「そんなに、俺達のことが嫌いなのか・・」 答えはない。 けれど両手を広げて白雪ちゃんを庇うヒナを見れば、答えは明らかだった。 沈黙が長く続く。 ヒナの頬に、支えきれなくなった涙が伝う。ヒナは凍えるように震えていた。 カーラジオの空電は雨音に似ていて、ヒナはまるで雨に濡れた子猫のようだった。 思わず手を伸ばしかける。 「こないで!」 明確な拒絶。 たった一言のメッセージ。けれど、それは明確な実体を伴う奔流となって俺を打ちのめした。 もうヒナの傍にいられない。もう涙も拭いてやれない。抱きしめてやることもできない。 何故こうなったのか、まるで分らない。 ヒナの涙は尽きることなく流れ続ける。への字に曲がった小さな口は見ているだけで苦痛だった。嗚咽を聞くだけで飛び出していきたくなる。けれど、それはもうできない。 泣きはらすヒナの視線の先には俺の顔がある。 今俺はどんな顔をしているのだろうか、答えはヒナの瞳の中にあった。 それはまるで突然道端に捨てられた、突然の飼い主の豹変に驚く子犬だった。なんて顔をしてやがると、自分を張り倒したくなる。 それ以上俺は自分を見ていることができなくて俯いた。 ヒナの嗚咽だけが暗い路地に低く響く。 それが裏切りを悔いる懺悔ではなく、離別の悲しみであることに気付いたときには、もう時間切れだった。 それほど遠くないところに、犬の鳴き声と人の話し声が聞こえた。憲兵がここにくるのは時間の問題だろう。 顔の代わりに手を上げて、暗い路地の奥を指差した。 「・・・行け」 自分でも驚いてしまうほどに、それは影のある湿った声音だった。 「行け、向こうからは憲兵はこない」 2人は石のように固まって動かない。 今度こそ、はっきりと俺は言った。 「分らないのか、早く行け」 ようやく2人は走りだした。 ヒナが白雪ちゃんの手を引き、2人は暗い路地へと消えていく。 角を曲がれば、もう2人の後ろ姿を見送ることはできない。 最後にヒナは振り返った。 もうこれで最後だった。伝えるべき言葉を殆ど伝えられず、ヒナと俺は別れる。 どうしたら少しでもヒナが安心して行けるだろうか。この先もずっと生きていけるだろうか。そう思った時、笑うことを選んでいた。 ちゃんと笑えているか、自信はなかった。けれど、それしかなかった。 せめて最後は幸せな記憶を――― ヒナは立ち止まった。袖で涙を拭うのが見えた。一度では拭いきれなかった涙を、なんどもなんども袖で拭う。 そして、笑った。 涙で崩れかけた笑顔だったけれど、確かにヒナは笑っていた。その一瞬だけは、千影のいなくなる前の、あの幸せだった日々がそこに蘇った。 幻のような時間は終り、ヒナの黄色のダッフルコートは街角の向こうへ消える。 後に残ったのは、ほんの僅かな幸せの欠片。 失うものが多すぎたけれど、無くならないものも確かにあったのだ。 「はっ・・・」 嗚咽に耐えて夜空を見上げた。涙がこぼれないように。 涙は流さない。 泣いてしまったら、もう飛べなくなる。 決着をつけるまでは泣かないと決めたのだ。そう、決めたのだ。 砲声。 港の方からだった。戦闘は続いている。つけっぱなしのカーラジオからは空電に混じって銃声が聞こえた。 「撃たないのか・・・?」 夜空を見上げながら俺は路地の暗がりに声を飛ばした。 それに答えるかのように、ラジオに聞き覚えのある人の声が流れる。 『私は大阪解放同盟の鞠絵と申します。今夜、大阪に住む全ての人に聞いてもらいたいことがあって、私達はラジオ大阪のスタジオを占拠いたしました』 暗がりの中から銃を構えた女兵士が音もなく現れる。 無骨なサブマシンガンの銃口はぴたりとポイントされている。目つきは鋭利な刃物のそれだ。しかし、顔立ちは優しかった。長い銀髪は丁寧に編み込まれている。抜けるように白い肌が僅かな明かりを受けて輝くようだった。 強いて言えば、北欧の妖精だろうか。酷く、非現実なまでに儚げな雰囲気。 「何故撃たないんだ・・?」 同じ質問を繰り返す愚は知っていたが、問わずにはいられなかった。 彼女は明らかにプロのプレイヤーだった。雰囲気で分る。情で流されるような隙は微塵もない。 「あなたは・・・白雪ちゃんと雛子ちゃんの大切な人です・・・」 なるほど、と返す。けれど釈然としないものがどこかにある。 『政府と軍は開戦時、大阪を護りきることが不可能であると判断し、戦力を温存するために大阪を見捨てました。これが私達の悲劇の始まりです。しかし、それはもう終わったことです。私達に今求められていることとは何も関係ありません』 鞠絵ちゃんの演説。それだけが沈黙する彼女の代わりに街路に響く。 彼女は何も話さない。ただじっと俺の顔を見つめるだけだった。 視線の意味を探ろうと、俺は彼女の瞳に問う。淡いスミレ色をした彼女の瞳に浮かぶのは深い悲しみだった。だが、理由が分らない。彼女が何を悲しんでいるのか、同情されるのならば、理解の余地はあるのだが。 『夜空を見上げてください、星と星の間に彼らはいるはずです!耳を澄ましてください、力強いジェットエンジンの鼓動が聞こえるはずです!』 思わず釣られて夜空を見上げた。 冬の星空、連合軍の空軍機など見えるはずもない。しかし、腹の奥底まで響くターボファンエンジンの重サウンドは否定できない。 大阪の空に、確かに彼らは帰ってきたのだ。 そして、この空のどこかにリボン付きのF−15Eがいるはずだった。 『彼らは帰ってきました。あの暑い夏の日に果たしえなかった約束を守るために。あの日から変わらず、ずっと変わらず彼らは長い征途を旅してきました』 対空砲火が火蓋を切った。 膨大な対空砲火と照準レーザーライトが空に交錯している。 それは地上から見上げる限り、魔法と神秘に彩られた夜空であり、幻想の世界とも言えた。これが戦争のつくりだした情景であることを知らなければ、いつまでも飽きることなく楽しめるだろう。 高射連隊はなんとか連合軍機を追い払おうとしているのだろうが、それは逆説的に大阪上空に奴らが存在することを証明してしまっていた。 「・・・あんたの名前を教えてくれないか?」 俺の問いに、彼女は途切れ途切れに答えた。 それは聞き覚えのある名前だった。確か・・・フランス義勇航空隊“シャノワール”の白薔薇。25機撃墜のエース、亞里亞中尉。 であるならば、彼女とは浅からぬ因縁がある。少し前、紀伊半島上空でロサ・ギなんとかのミラージュを落したということで、報道部の取材を受けた覚えがある。 そして、もう一つの事実に思い至ったところで、唐突に俺は全てを理解した。 俺を撃たなかった本当の理由と、瞳に浮かぶ悲しみの意味。そして、彼女がここにいる理由。 「いい・・友達を持ったな・・・咲耶・・・」 彼女はおそらく俺のことを聞きつけ、探していたのだろう。 そして、待っていた。 俺の意思を確かめ、そして何かを伝えるために。 「どうしても・・・戦わなくてはいけないの?・・咲耶あねやはずっとあなたのことを想ってきました・・・あねやは強い人じゃないの・・すごく悲しんでいるの・・きっとたちなおれなくなってしまうの・・・それでも・・殺しあわなければならないの・・・?」 「・・・そうだ」 答えは簡潔だった。完結だった。もはや他の選択肢などありえない。そんなものはとうの昔に失われている。 彼女は続けて何か言おうとしたが、数瞬の躊躇いを見せて口を噤んだ。 彼女が何を言おうとしたかは分っていた。けれど、それは分っていても、分るわけにはいかないことだった。 重い沈黙。 天然色の対空砲火に彩られた街。 砲声と悲鳴、人の走る音と何かが燃える音。 賑やかだった。けれどそれらを一切無視して、ここには沈黙があった。 『長い旅路の果てに、彼らはこの大阪に辿りつきました。今度は私達が彼らを迎え入れる番です。彼らがいる限り、必ず大阪は解放されます!』 鞠絵ちゃんの演説が一際大きく沈黙を揺さぶった。 その揺さぶりは、おそらくこの大阪の全てが震えたのだろう。 俺は再び夜空を見上げていた。 『だから、勇気をだして――――』 重く心に響く声色。 必死な、痛みに耐えるかのような。いや、それは本当に痛みに耐える人間のそれだった。 銃声。くもぐった鞠絵ちゃんの悲鳴、人が倒れる音。 何も手にしていない左手は、何かを掴もうとひとりでに動いていた。勝手に動き出した左を見下ろし、これはこの放送を聴いている全ての人間が同じだろうと俺は奇妙な確信を抱いた。 『―――――前へ!!』 破壊音と共に放送は途切れた。同時に遠くに砲声を聴く。 けれど、一度解き放たれた電波は止まることをしらない。 彼女の最後の言葉は、確実に大阪の全てに広がった。 連鎖的な反応が始まる。爆発的とさえいえるほどの反応速度。最初にどの家の光が点灯したのかは分らない。けれど、それは一瞬にして大阪全ての、この1年に対する回答へと変わった。 綺麗だった冬の星空はもう、無い。 星の光に代わって、人の光が街を照らす。 これほどまでに街の灯火が暖かいものだとは知らなかった。 「終わったな・・・」 大勢は決した。 それはこの大阪だけではない。もはや、この戦争の全てにおいて東日本の勝利はありえないと悟る。大阪の光を見て、そう悟ったのだ。 しかし、感情はまるで動かない。悲しみや、無念といった敗北にまつわる感情はおよそ何一つ浮かんでこなかった。そのことに微かにおかしみを感じる自分がいて、また同時に清々しい開放感を感じる自分がいた。 これから先の戦いは、いかに早く全ての東日本の兵士を報われない義務から解放するかということに変わっていくだろう。 そして、義務から解放されたある一人のパイロットのほんの小さな我侭くらいは、きっと祖国とやらも見逃してくれるに違いない。 それが単純に嬉しかった。 最後は、余計なもの抜きで決着をつけたいと思っていたのだ。 そんな俺の小さな喜びを邪魔するかのように、ラジオががなりたてる。空電が激しい。しかし、それは直に収まった。 なんだ?と思う暇もなく、甲高い男の声がスピーカーを震わせる。 「こちらは大阪防衛軍司令部。非常通信網を用いて日本国内の同志と敵軍に告げる。今より数分後、我らが偉大なる祖国が開発した反応兵器を大阪に投下する。この兵器により、確実に、大阪は二度と朝を迎えることはなくなると断言する。回避は不可能。我らに死はあれども敗北はない。敵国の情けに恭順する降伏も、ありえない。総員、ご苦労だった。東日本人民民主義共和国に栄光あれ―――」 俺は無言でラジオのスイッチを切った。 「馬鹿どもめ・・・」 溜め息。けれど心が妙に軽いことに気が付いた。 どこかからかおかしみが溢れだす。 心の中に絶望など欠片も存在しなかった。なぜならば、そんな生ぬるいものなど問題にしないほどの奇跡を俺は知っていたからだ。 それはまさに風の妖精。奇跡の存在。リボン付き、メビウス1。 「どうして笑っているの・・?」 「いや、下らん馬鹿の悪あがきをぶっ飛ばす正義の味方が自分の身内だと思うと、なかなかに面白いくてな」 あえて、意識して妹とは呼ばなかった。 それが彼女の顔を曇らせる。しかし、これは譲ることができないことだった。 いよいよ空爆が激しくなる。地響きが連続して、彼女がふらついた。 これ以上の会話は不用だった。続きは、空に上がった後でいい。 「新潟で待っていると、咲耶に伝えておいてくれ」 「・・・それで・・いいの?」 「・・ああ、これでいいんだ」 背中に問い掛ける彼女の言葉は優しかった。 気遣いが身に染みる。特に、今日は別れが多すぎた。きっと、その所為だろう。 「縁があったら・・・また会いましょう・・・」 「・・・次は戦場の空で」 優しい言葉に背を向けて、13は歩きだした。 口笛を吹く。 いつもバーで弾いたお気に入りのメロディ。 対空砲火と空爆に途切れながらも、メロディは街の光に溶けていく。 やがて、足取りは暗い街路へと消えていった。 別れの日を謳いながら。 2001年12月23日 午後11時57分 「今の放送聞きマシタか!?」 「ついに書記長が頭てっぺんきちゃったってことでしょう?」 咲耶は気の無い返事を返した。同時に、兵装投下スイッチを押しこむ。 軽い震動があって、最後のGBU―12を4発同時投下。爆弾はすぐさま闇に飲み込まれて見えなくなる。同時に翼を翻す。 スロットルはミリタリーからMAXへ、アフターバーナーON。 LINK−16システムを使い戦術状況ディスプレイで状況を確認、北東からTu−160が1機、それに護衛のSu−27系の戦闘機が高速接近中。 舌打ちする。相手は完全武装のフランカー、手持ちのミサイルは自衛用のサイドワインダーが4発。残弾が少なすぎた。 RWSが騒ぎ始める。AN/ALR−56レーダー警戒受信機が敵機のレーダー波を捉える。同時にこちらのAPG−70レーダーも敵機を捉えた。モードセレクト、TWSモードへ、敵機の方位、速度、アスペクトアングルを得て、最短衝突コースへ。 ロックオン警報、ミサイルが来る。R−27AE、NATOコードはAA−10アラモ。イーグルとフランカーの間合いは80キロを超える。 「さあ、しっかりついてきなさいよ」 後を追う編隊機に声をかけて、それから先は一切注意をイーグルのあらゆる全て動きに向けた。 イーグルは私を裏切らない。危険があればイーグルはただちに教えてくれる。もし負けるとしたら、それは私がイーグルの警告に気付かなかった場合だけだろう。 イーグルは降下しつつ右旋回、レーダー波横切るオフセット機動。 Su−35のパイロットは突然レーダーから消失したイーグルに戸惑う。アラモは母機からのデーターリンクを失う。アラモは慣性航法に切り替え何も無い空間へ向かう。アクティブレーダーが作動、けれどイーグルを捉えられない。 Su−35の編隊は散開、消えたイーグルを追う。 イーグルは低空まで降下していた。高度20メートル、Su−35のIRSTを封じ込める。IRSTは地表のノイズを捉えてイーグルを見つけることができない。 イーグルはLANTIRNを作動、赤外線を捉えて実像を結ぶ。地上のありとあらゆるものが高速に遠ざかっていく。外は一寸先さえ見えない暗闇だ。自分以外はこの闇に中に存在しないのではないかと、空想する。大阪の光ももう届かない。闇の只中。まるで吸い込まれそうな夜だった。 ランターンはレーダーと連動してTu−160を見つけだす。巨大な機影が地表を舐めるように飛んでいる。 サイドワインダーのシーカー作動SWに指を掛ける。発射可能距離まで約30秒。 「メビウス1、フランカーが背後につけてマス!」 AWACSのレーダーはSu−35を捉えていた。 イーグルの後方にSu−35がつけているのか、コクピットからでは見えない。 「タイミングを指示シマス。そのまま飛んでください。4時方向」 四葉ちゃんの声は緊張していた。けれど、不安は感じられなかった。ここは四葉ちゃんを信じて任せよう。一瞬の躊躇を握りつぶして操縦桿に伝える。 イーグルはそのままTu−160の背後へ回り込むべく、緩い旋回を続ける。 「5時方向、ブレイクハードポート」 振り返る。敵機の姿は見えない。そこにあるのは星の瞬く夜空だった。月は天頂に昇ろうとしている。その月に一瞬だけ、暗い影がよぎった。 「ポート・ナウ!」 イーグルは左上昇旋回、機体を滑らせる。 ループ、その場でトンボ切るかのようなループ。ループ頂上で機体は背面、咲耶は大Gに逆らって首を回らす。下方に焼けた曳航弾の奔流が突き抜けるのを見た。 世界が一回転して、地上と夜空の区別がなくなる。けれど主翼が風を切る感触はどこまでも正確に把握していた。チタンの翼が風を切る感触はどこまでも硬い。けれど、その翼は冷たい冬の風を、空と飛ぶ力に変える。 急な機動で剥がれた気流が水蒸気を冷やし、夜空に白いヴェイパーを引く。 イーグルはSu−35の背後につく。ガン射程圏内。 視界から消えたイーグルにフランカーのパイロットは狼狽を隠せない。追い討ちをかけるようにテールコーンのN−012後方警戒レーダーが警告を発する。 闇の中に赤い2基のエンジンノズルを捉える。ぼんやりと、月明かりに照らされて敵機の輪郭を捉える。月影が敵機の輪郭を白く染めていた。 APG−70レーダーの電子の魔眼は敵機を絡めとる。STTモード、TDボックスが激しく動きまわる。けれど、遅すぎる。 レティクルとピパーを合わせ、軽くトリガーを引く。ガン攻撃。 M61A1の唸り、闇の中に一条の明かりが突き抜ける。その先にはSu−35の巨大な機影があった。鉄弾がフランカーを砕く、へびの舌のような赤い炎が見えた。やがてそれはくまなく機体を覆い、弾ける。 「スプラッシュ!」 イーグルは破片を吸い込まないようにブレーク。ブラックジャックを追う。 兵装はAIM−9L。APG−70レーダーはスーパーサーチモード。ブラックジャックを捉える。 遠い、フランカーに時間を割きすぎていた。他の機はフランカーとの格闘戦に巻き込まれている。アフターバーナーを焚く。追いつけるか? 「・・・お願い」 祈りながらスロットルを押し込む。けれど、心のどこかで間に合わないとも確信していた。せめてアムラームがあれば、と思う。 じりじりと距離は縮まる。ぼんやりとした灯火、Tu−160のアフターバーナーの煌き。それはまるで星のように見えた。夜空に星は数あれど、星には手が届かない。そして、その向こうにはもう大阪の灯火が見えていた。 狂おしいまでの衝動、このコックピットから飛び出して駆け出したいほどの焦燥。 大阪が焼かれようとしているのに、それを止める力もあるのに、手が届かない。 「しっかりして、ストライクイーグル。あなたは鷲の王様なんでしょう!?」 MFDに拳を叩きつける。 イーグルはその暴挙に抗議をしなかった。けれど、主の願いをかなえることもしなかった。 だが、衝撃で“それ”のカバーが外れる。 それで唐突に思い出した。大阪に来る前、イーグルはエンジンを換装していたことを。 今のイーグルの心臓はF100―PW―229ではなく、IHI−X02Aターボファンであることを思い出す。焦るあまりそのことをすっかり忘れていた。 この試作エンジンは、マッハ1以上でさらにその先を目指すためにある画期的な装置を装備していた。 Vmaxスイッチを押し込む。アフターバーナーにさらに水素燃料が投入される。セミ・ラムエア・モードスタート。 轟音。イーグルは限界を超えて、エンジンの耐久時間をすり減らして加速する。突発的な、ジェットエンジンとは全く異質の加速。 マッハ計はすぐさま1.5を超えて、2にせまる。機体の振動が止まらない。 そして、マッハ2を超えたときAIM−9LのIRシーカーがブラックジャックを捉える。すぐさま兵装投下スイッチを押し込んだ。 火薬カートリッジの力でサイドワインダーが2発切り離される。水平発射、ミサイルは僅かに沈み込み、ロケットモーターに点火。白い白煙を引いてTu−160を目指す。イーグルは排煙を吸い込まないようにブレーク。 ブラックジャックはフレアをばらまく、回避機動。 だが、AIM−9Lのヴァンパイアの目は誤魔化せない。アルゴンガスで十分に冷やされたイリジウム・アモンチン化合物で構成されるシーカードームは微細な長波長赤外線輻射のみを通過させ、カレグレイニアン反射器が集束、光電式レセプターに集中させる。ただ高熱を発するだけのフレアは全て無視され、魔弾はブラックジャックに迫撃する。 アクティブレーダー近接信管が作動、感光性半導体素子が起電流を流し弾頭の信管を作動させる。ミサイル、爆発。 巨人爆撃機は魔弾の一撃に打ち倒される。さらにもう一撃が主翼を穿つ。ブラックジャックは主翼に炎を纏って高度落として、地上にたたきつけられた。 イーグルは高度を上げて、それを見下ろす。 反応兵器とかいう、下品な自決兵器が爆発する様子はなかった。 ほっと胸をなでおろす。 「メビウス1が爆撃機を落したぞ!」 「ヤッホー、またやってくれたぜ〜」 「凄いデスよー姉チャマ〜」 「うん、ありがとー」 すっかりなれきった仲間の賞賛とやっかみをいなす。 護衛のフランカーも引き上げたようだった。 「今のは危なかったね・・・」 顔をちょっとだけ引きつらせて衛ちゃんは笑った。 「私も、爆弾が爆発したらどうしようかと思ったわ」 「うん、それもあるけどイーグルが分解するかと思ったよ」 そうだった。確かVmaxモードはイーグルには本来ない機能だからなるだけ使わないようにと釘を刺されていた。お兄様のS−37と互角に渡り合うためとはいえ、無茶が過ぎるらしい。 「まあ、いいや・・・さくねぇ、メリークリスマス」 「うん、メリークリスマス」 戦闘が終わったらささやかにクリスマスを祝おうと二人で決めていた。 そして、もう一つ決めていたことがある。 「Silent night」 「Holy night」 大阪の灯火をクリスマスツリー代わりにして、私達は歌を謡う。清しこの夜。 戦争の夜には似合わない、清らかな歌。それは償いだった。私達には聖夜を汚した罰とお兄様の恋人を殺した罰がある。 不意に、お兄様の顔が脳理を横切った。 今どこで、何をしているんだろう・・・この聖なる夜に 想い、心に過ぎるのはあの夏の日のお兄様だけだった。あの暑い夏の日、それはもう遠い記憶の彼方にしかない。 見上げる夜空には月が出ていた。星の輝きは街の光に負けてしまってもう見えない。 見下ろせば、それは地上の天の川だった。街の光で出来たミルキーウェイ。 「翼よ。あれが大阪の灯よ」 操縦桿をゆっくりと引いた。疲れ果てたイーグルを労うように。 2001年12月24日 午前0時3分 「参謀総長!私が聞きたいことはただ一つだ。大阪は燃えているのか?イエスかノーか?」 扉を開けて最初に彼らが目にしたのは、不健康なほどに太った醜男と、そんな取るに足らない醜男に叱責されて縮こまる無様な大男だった。 醜男の仕事部屋であるこの部屋は海外から一流の調度品が取り揃えられ、サイドボードには世界のあらゆる銘酒が並べられていた。 もっとも、この部屋の主である醜男は下戸なのでその全ては飾りだった。虚飾と言っても良い。 西日本製のアニメーションが何よりも好きで、大阪占領時にはアニメーション会社から根こそぎセル画を根こそぎ徴発するように命令したこの部屋の主は、その実マッチョに魂のレベルからのコンプレックスを抱いていたのだ。その癖、セックスにおいては相手にアニメーションのキャラクターの衣装を着せなければ性的興奮を得られないという、救いがたい性癖を持っている。 そして、彼らの祖国はそのような人間的にあまり好ましからぬ人物によって支配されていた。それもこの瞬間に終りを告げるわけではあるのだが。 「誰だ貴様!」 「ノー」 「ふざけるな!」 一瞬で血圧を上げる書記長に対して、どこまでも侵入者は冷静だった。 無論、それが彼の背後に控える1個中隊もの完全武装の兵士、さらには関山演習場で再編成中だったはずの歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、赤衛歩兵第3連隊の下士官兵1400人の戦力を背景にしたものではあったが。 「書記長殿が、大阪が燃えているかどうかとお尋ねになったから、お答えしただけだというのに、随分と酷い言われようですね・・・」 「貴様、何を言っているんだ。俺を誰だと思ってる!?」 「ただのデブだ。ハゲたな。まだ分らないのですか?これはクーデターなんですよ?これから処刑されるのですよ、あんたは。ヒトラーみたいに自決できるとでも思ったのか?」 「馬鹿な!」 ほとんど躁状態で次々に日本語から未知の未開部族語へ飛んでいく書記長の言葉を聞く者はその場に一人もいなかった。 ただ鼓膜が震えるだけで、それすらも煩わしい以外の何もでもない。 一発の銃声が、それを止める。 「時間どおりだな、大佐」 「はい、閣下。全て計画どおりに進行中です。何も問題ありません」 「閣下と呼ぶな。ばかもの」 閣下と呼ばれた参謀総長はまんざらでもない顔をして笑った。この国で閣下と呼称される人物は書記長一人だけだった。 そこには卑屈に縮こまっていた時の皺の深い顔はどこにもない。あるのはどこまでも常人には理解不能な自信に満ち溢れた、激烈な思想を信じるものだけの、狂気に触れた者の顔だった。 「書記長殿にも、困ったものだ・・・大阪を焼いたところでこの戦争が終わるとでも思っていたのだろうか?」 最早もの言わぬ骸に彼は疑問を投げ掛ける。 「さぁ、偉大なる富士の山の頂に輝く北斗七星のごとき人物の発想は常人の私達には永遠に理解不能でしょう・・・」 そう言って大佐は嘲弄の笑みを浮かべた。 それは東日本の標準的な小学校で用いられる国語教科書の一節だった。他にもいろいろとバリエーションがある。 「まあ、いい。それよりも売国奴の掃討は、海軍の天広中将一派の逮捕はどうなってる?」 「和平派の掃討も順調です。既に天広中将は捕縛しました。ナンバー2の可憐准将は逃亡した後でしたが、まもなく逮捕できるでしょう」 「よろしい・・・が、一つ問題がある」 部屋に飾られていたドイツ製の巨大地球儀を弄びながら彼は言った。 「奴らは和平派などではない、売国奴だ。いいか、二度と間違えるな」 威厳のある響きにただ大佐は恐縮するだけだった。 けれど、その響きをまともな神経を持つものが聴けば、それが酷く騒がしい狂競ものに聞こえただろう。すくなくとも日常世界においては、それは素面ではありえない。 けれど、そのような人間はここには一部の使用人を除いて存在しなかった。何しろここは粘菌と神秘の神々が宿るとされる東日本国家最高指導者の邸宅であり、12000枚の特殊装甲に護られた大深度地下防空壕だった。 戦略核兵器を用いても破壊しきれないとされる、共産主義に目覚めた革新的な人民の星の住まいは、単純かつ古典的とさえいえる身内の裏切りによってあっけなく城を明け渡すことになった。 そして、地上ではこれと同じ光景が新潟のそこかしこで再現されていた。 「N計画はどうなっている?」 十分に大佐が萎縮しきったところで、彼は話題を変えることにした。 「はい、鈴凛博士はさらなる予算と資材の追加を要求しています。ですが―――」 「構わん、予算、人員、資材、糸目はつけるな。一日でもN計画を完成させるのだ」 地球儀の上で彷徨った彼の指は佐渡島に止められた。 「はい、そのように指示いたします。しかし、あの女を信用してもいいのでしょうか?」 「心配ない。ただの科学者だ。監視もつけている。今は一刻も早くN計画を完成させるのが先決だ。我らが女神、ネメシスの完成の暁には西側の黴腐った資本主義諸国どころか、ソヴィエトさえ問題にならん」 抜き放たれたナイフはプラスチェック製の地球儀を易々と貫いた。 「祖国が世界に新秩序をもたらすのですね!」 感極まって泣き出す大佐に、彼は鷹揚に頷いてやった。 そうすれば、この無能者は何があろうと永遠に忠誠を誓うだろうと計算しつくしていたのだ。そうでもなければ、感極まって泣き出すような人間を彼は自分の傍に置いたりしない。 「今日は日本を―――」 「明日は世界を―――!」 ミッション13へ戻る 書庫へ ミッション15へ続く |
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