独白 黄色の13

 千影の私物を片付けようと思ったのは、千影が毎朝起こしに来てくれなくなってから1ヶ月が過ぎたある日の朝だった。
 一人で目覚めることにはもう慣れていた。
 千影の代わりに買った目覚まし時計のベルの音で目が醒める。デジタル式の簡素な目覚まし時計だった。ボタン一つで静けさが戻る。
 微かに部下の、その大半が他の部隊に引き抜かれて未熟なパイロットに入れ替わったのだけれど、騒ぐ声が聞こえる他はいつもと同じ静かな朝だった。
 その静けさの中で、改めて千影がもう二度と起こしにきてくれないことを俺は思い知るのだった。






ACECOMBATSISTER

shattered prinsess

エースコンバットシスター シャッタードプリンセス













ミッション12 偵察機の帰還SAFE RETURN〜


「おにいたま?」

 千影おねえたまの部屋におにいたまは一人で立っていました。
 じっと、手に取った写真を見ています。
 今日は良いお天気で、スカイ・キッズから久しぶりにおにいたまがいる基地に遊びにきていました。
 最近おにいたまはずっとどこかへお出かけしていたので、今日は久しぶりにおにいたまと遊ぼうと思っていたのに、おにいたまはなかなか見つかりません。
 やっとおにいたまを見つけた時、おにいたまは千影おねえたまの部屋でじっと写真を見ていました。
 千影おねえたまの部屋は千影おねえたまが帰ってこなかった日から何も変っていませんでした。だけど、ベッドの上にはたくさんの写真が散らばっていて、たぶんおにいたまが散らかしてしまってのだと思います。
 おにいたまはいつもヒナにおかたづけをするように言うのに、自分だけ散らかしっぱなしにするなんてずるいです。ヒナはぷんぷんです。でも、おにいたまを怒ることなんてできません。
 だって、今日のおにいたまは千影おねえたまが帰ってこなかった日よりも元気がないように見えたからです。
 だから、ヒナの元気の良いあいさつで元気を別けて上げようと思ったのに、何故か足が進みません。まるで足が地面に張り付いてしまったようです。
 だから、ドアを開けたままヒナはずっと写真を見ているおにいたまを見ていました。
 写真を見ているおにいたまは、なんだか寂しそうな、悲しそうな、まるで曇り空のような顔をしています。
 でも、おにいたまが悲しくて泣くのをヒナは一度も見たことがありません。ヒナがどれだけ泣いても、おにいたまは一度も泣きませんでした。
 おにいたまは千影おねえたまが死んでも悲しくないのでしょうか?
 それはきっと違うと思うけど、おにいたまは何も言わないのでわかりません。

「どうしたんだい・・・ヒナ」

 おにいたまはヒナに気付いていないと思っていたので、ちょっとびっくりしてしまいました。
 おにいたまはヒナが写真を見ているのに気が付くと、ちょっとだけ照れくさそうに笑いました。そして、その写真をポケットにしまってしまいました。
 どんな写真をおにいたまが見ていたのか気になります。だけど、その前に今日はしなければいけないことが一つありました。

「あのね、ずっと忘れていたけど・・・千影おねえたまからハンカチを借りていたの」

 ポケットの中には鞠絵おねえたまが洗ってくれた千影おねえたまのハンカチが入っていました。
 ずっと前、もう一ヶ月も前、千影おねえたまが空に昇ったまま帰ってこなかったあの日、千影おねえたまから借りた紫色のハンカチです。

「そうか・・・返しに来てくれたのか、ありがとう」

 それっきり、おにいたまはヒナのことを忘れてしまったかのように、じっとハンカチを見ているだけでした。
 時々、ハンカチを撫でるだけで、おにいたまは何も言ってくれません。
 その内、ヒナはおにいたまがンカチを見ていないことに気が付きました。おにいたまはハンカチを見ているのではなくて、もっとずっと遠いところを見ているような、ここではないどこかを見ているような、そんな気がしました。
 ハンカチは目の前にあるのに、見ているのはここではないどこか・・・一体おにいたまは何を見ているのでしょうか?
 ヒナにはわかりません。
 でも、これだけははっきりとわかることもあります。それはおにいたまが千影おねえたまのことを想っているということです。
 
「これと交換しよう、ヒナ」

 そう言って、おにいたまが渡してくれたのはおにいたまが見ていた写真でした。
 ずっとずっと前、写真屋さんでみんなでいっしょに撮ってもらった写真です。おにいたまと千影おねえたま、白雪おねえたまとヒナが写っています。
 写真の中で千影おねえたまはいつものように少し笑っています。千影おねえたまと仲が悪い白雪おねえたまも恥ずかしそうに笑っていました。
 この写真を見ていると涙が出そうになってしまいました。
 もう千影おねえたまは写真の中にしかいないのです。
 もう涙が全部なくなってしまうくらいに泣いたのに、まだ涙は尽きないのです。一体どれだけヒナの目には涙が蓄えられているのでしょうか?
 
「大丈夫かい、ヒナ・・」

 でも、おにいたまがぎゅっと抱きしめてくれるから涙は後少しのところで止まりました。
 涙を堪えるのはとても辛いことです。
 だから、おにいたまが涙を堪えているのに直気がつきました。だって、すっごく辛そうな顔をしているのです。

「おにいたま・・・ヒナ、泣かないよ。でも、おにいたまは泣いていいよ」

 ヒナを抱きしめるおにいたまを良い子、良い子してあげます。ヒナが泣くと千影おねえたまはいつもこうしてくれました。
 でも、おにいたまは泣きませんでした。
 泣かないで、おにいたまは少しだけ微笑みます。けれど、おにいたまは泣いているのだとわかりました。涙が流れなくても、おにいたまは泣いているのです。
 おにいたまはずるいと思います。
 ヒナにはどうして、涙を流さず泣く方法を教えてくれないのでしょう・・・

「ヒナ・・・千影を撃墜したパイロットを憎んではいけないよ・・・」

「どうして?」

 耳元でささやくおにいたまの言うことはよく分りませんでした。
 ヒナとおにいたまから千影おねえたまを奪ったリボン付きをヒナは絶対に許せません。
 でも、おにいたまは言います。

「千影は自分の意思で、不調機であることを知っていて飛んだ。結局、全てはパイロット自身が負うしかないことなんだ・・これは」

「でも・・・」

「憎しみで戦ってはいけない。戦闘機パイロットは憎しみで飛んではいけないんだ」

「どうしてなの?」

 おにいたまは千影おねえたまを奪ったリボン付きを恨んでいないのでしょうか?
 
「冷静な判断が出来なくなる・・・実際的に言えばそうかもしれない。だが、俺は違うと思っている。戦闘機パイロットは明日をも知れない命だ。一度空に上がった後はどんな死に方をしても文句は言えない。奇麗事なんて通用しない世界だ。だから、せめて最後ぐらいは潔くありたいと思う。最後に振りかえったとき、後悔しないようにしなくてはいけないと思う。」

 おにいたまはまるでお別れを言うように言いました。
 急に、おにいたまが遠くへ行ってしまうような気がして、ヒナはおにいたまにぎゅっと抱きつきました。
 でも、おにいたまはここにいるのに、どこか別のところにいるような、そんな気がしました。

「いや・・ぐっす、おにいたま・・ひぐっ・・・そんな恐いこと言わないで」

 喉がつぶれて上手く話せません。
 おにいたまたまで死んでしまったら、一体ヒナはどうすればいいのでしょうか。
 空っぽの棺でお葬式をするのはもうイヤです。

「大丈夫、おにいたまはそう簡単には死なないよ」

「本当?」

「ああ、約束する」

 おにいたまとゆびきりをしました。実はゆびきりはものすごーい約束なのです。
 ゆびきりはハリセンボンのーます、と言って約束します。約束を破ったら、針を千本も飲まなくてはいけないと千影おねえたまが教えてくれました。
 針が喉に刺さったら、きっとすごく痛くて血がたくさんでます。死んでしまうにちがいありません。だから、おにいたまも絶対に約束を護ってくれるでしょう。
 
「でも、おにいたま。どうしておにいたまは空を飛ぶの?」

 おにいたまは恨んではいけないと言いました。憎んでもいけません。では、どうしておにいたまは空を飛ぶのでしょうか、一体何を考えて空を飛んでいるのでしょうか?
 急に、おにいたまがどうして空を飛ぶようになったのか、空を飛ぶのがどんなことなのか知りたくなりました。

「それは難しい質問だな」

 と、おにいたまは少し困ったように言います。

「最初にあるのは憧れ、或は何かの必要性だ、怨恨でもいい・・だがそれだけでは長く続かない。最後に空へと人を衝き動かすのは・・・それは誇り、或は信義だと思うな」

「しんぎ?ほこり?」

「ヒナにはまだ少し難しかったかな?」

 と、おにいたまは少しイジワルです。

「ヒナはもう大きいもん!」

「そうか・・・じゃあ、話してあげよう。いかなる強制力もなしに人を個人として動かすもの。おにいたまはそれを信義と呼ぶことにしている。義務や名誉などという御題目に頼るなど、けして許せるものじゃない。人は、いまここにあるが故に、そうするだけなのだ」

 おにいたまははっきりと言いました。 
 さっき言ったことはなかったことにしたいと思います。ヒナにはさっぱりわかりません。
 でも、何かすごく大切なことを言っているということだけはわかります。

「たとえ何度おなじ過ちを繰り返しても?」

 これはヒナの声ではありません。
 何時の間にか、整備員のおじさんがドアのところに立っていました。いつもヒナにお菓子をくれるお髭のおじさんです。
 整備員おじさんは帽子をじゃまでどんな顔をしているかは分りません。でも、なんだか声が悲しそうでした。

「過ちが罪となりうるのは、それを犯している意味に気づかない場合だけなのだ」

 また、おにいたまは強い声ではっきりと言いました。

「人は過誤からけして逃れられない。過てば義務の不履行を糾弾され、名誉にもとると非難される。しかし信義は汚れない。他のなにものからも傷つけられない場所にただある。だからこそ明日なにをなすべきかがわかる。同じことを二度繰り返して悪いという法はない」

「それが必要と信じる限り?」

 整備員のおじさんは何かを確かめるように言います。

「そうだ、まさにそうだ。それを必要と信じる限り、か・・・いい言葉だ」

 おにいたまは整備員のおじさんからヘルメットを受け取って、代わりにつくえの上に広げてあった新聞を渡しました。
 その新聞は今朝の新聞で、ヒナも見たことがありました。漢字は読めないけど、千影おねえたまを撃墜したリボン付きの写真が載っているはずです。
 たしか戦闘機の前でポーズを取っている二人のパイロットの写真だったと思います。
 リボン付きは千影おねえたまと同じくらいの歳で、綺麗な大人の女の人でした。もう一人のパイロットは明るくて元気が良さそうな女の人だったはずです。

「何故・・・こんなことになったんだろうな・・・咲耶・・」

「おにいたま、なんて言ったの?」

 ドアの外からすっごく大きな機械の音がして、おにいたまが何を言ったのかよく聞こえませでした。
 この音はいつも聞いている戦闘機のエンジンの音は少し違います。いつもの音よりもずっと静かで、高くて、強いのです。
 
「おにいたま!」
 
 何も言わずに滑走路へ歩いていくおにいたまを追いかけようとしました。でも、整備員のおじさんに止められてしまいます。

「放して、おじさん!」

「雛子ちゃん」

 おじさんはしっかりヒナの目を見ながら言って、首を振りました。
 それだけでおにいたまを追いかけていけないということがわかりました。
 どうして、なぜ、と思います。でも、追いかけてもおにいたまにはぜったいに追いつけないような気がしました。
 どんなに呼んでも、振り返ってくれないのだとわかってしまいました。

「おにいたま・・・」

 おにいたまは振り返ってくれない、と分っているのにおにいたまを呼んでいました。
 どんなに泣いてもおにいたまはもう慰めてくれないと分っているのに、涙が止まりません。
 ヒナがこんなにも泣いているのに、呼んでいるのに、おにいたまは決して振り返ってくれないのです。ヒナは捨てられてしまったのです。
 おにいたまに捨てられてしまったのなら、もうヒナは何の価値もなくなってしまったようなものでした。もう生きていくこともできません。
 千影おねえたまも、おにいたまもいない世界なんて、考えることさえできないのです。もう立っていられなくて、あかちゃんみたいに丸くなって泣きました。
 でも、千影おねえたまもおにいたまも、誰も慰めてくれないのです。
 もう何もかも壊れてしまったことがよくやくヒナにも分りました。何もかもめちゃくちゃになってしまったのです。

「おにいたま・・・ヒナを捨てないで・・・」

 涙でくしゃくしゃになってしまった世界の中で、大きな黒い戦闘機がおにいたまを乗せて、ヒナを置いて飛び立ちました。
 まるで怪獣のようで、その飛行機はすごく恐い感じがします。
 ヒナはおにいたまが飛び立った空を見上げました。
 おにいたまを乗せた戦闘機はたった一人きりで空へと消えていきます。
 涙も、言葉も届かない遥かな空は今日もきれいな水色でした。












「だれより〜あなたの声が聴きたくて〜」

「ちょっと、さくねぇ。それ、何の歌?」

 計器盤に視線を落したまま衛ちゃんは言う。
 高度1万メートル、快晴。4機の編隊機を引き連れて、私は久しぶりの高高度の風を楽しんでいた。
 高いところは気持ちいい。さらに速ければ、申し分ない。これで適当なBGMがあれば言うことはないのだけど、残念ながら戦うために生まれた鋼鉄の鷲にオーディオ機器との関係性は皆無にして絶無だった。
 だから、こうしてアカペラで歌を歌っていたのだけれど、長らく歌とは無縁の生活だったせいか、あまり歌詞がよく思い出せない。
 カラオケでは定番のレパートリーだったはずのに・・・と、そこまで思い至ってところで、最後にカラオケに行ったのがもう1年以上も前だったことに気が付くのだった。
 衛ちゃんに気付かれないように溜め息、溜め息は高空の空へと溶けていく。
 何も無い高空の空は低空飛行に比べると変化に乏しいが、やはり高いところというのはあらゆる意味で感覚が圧倒される。

「ごめん。名前、覚えてないや」

「覚えてないならいいよ」

 あまり興味が無かったのか、衛ちゃんはそっけなく言って深く尋ねようとしなかった。
 一度会話が途切れると、コクピットは静まりかえる。
 沈黙は苦手ではないけれど、かといって好きでもない。ケースバイ・ケースだった。
 今の沈黙はたぶん上から数えた方が早いくらいだと思う。そんなに悪くない。不意の襲撃を警戒しつつの高高度飛行。コクピットの沈黙の成分は電子機器の作動音と微かな呼吸音、酸素マスクの弁が肺で暖められた空気に動かされて開閉する音、そして鈍いF100−PW−229の駆動音。
 機体の調子はこれ以上となく良い。
 深い呼吸を一つ、それで気持ちを切り替える。そろそろ作戦空域だった。

「咲耶姉チャマ、そろそろ偵察機が見えませんか?」

 四葉ちゃんが無線封鎖解除を告げる。

「レーダーにコンタクトはないわね」

 MFDにはRWSモードでの走査結果が表示されている。今のところ、それらしい反応は見つからない。
 今日の任務は帰還する偵察機の護衛、何でも東日本の首都新潟まで偵察に出たらしい。よく旧式なU−2なんかで生きて帰ってこれたと思う。
 最近ではSR−71、もっと新しいのになるとラムジェットブースターを装備したF−15まで投入して連合軍は偵察ミッションをこなしていた。それでもはかなりの数が撃墜されているのだから、鈍足のU−2での偵察は相当勇気がいる。
 相手も無線封鎖を解除しているはずだから、そろそろ向うから声を掛けてくるはずなのに・・・一向に連絡はない。
 
「まさか、撃墜されたとか・・・」

「そうかも」

「どうしたらいいの・・・?」

 亞里亞ちゃんの方でもまだ見つからないらしい。
 編隊隊形はノーマル、振り返れば亞里亞ちゃんの困った顔が見える。ジャンケンさえできる距離だった。
 フライトリーダーの私のF−15E、そのウイングマンのF−15C。エレメントリーダーで亞里亞ちゃんのミラージュ2000とそのウイングマンのミラージュ2000。西側の最高レベルの戦闘機とパイロットを集めても、さすがにもう落ちてしまった飛行機を護衛することはできない。
 視線を下に向ければ、分厚い雲の海が地平線の向うまで続いている。灰色の雲でできたカーペット、たぶん下は雨だろう。
 今だ東日本の占領下にある大阪から南へおよそ40キロ、雨に濡れる和歌山の山々のどこかでまだ偵察機のパイロットは戦っているかもしれない。
 それは或は甲斐の無い戦いかもしれないけれど、それを決めるのは私ではない。とにかく助けにいかないと。
 でも、どうやって?

「レーダーにコンタクト、ボギーが3、いや4機。低空を高速で接近中。スカイクローバー、そっちでも捉まえた?」

 私の疑問に答えるかのように、ストライクイーグルのレーダーが何かを見つけた。

「はい、見えているデスよ〜Mig29が4機。でも、変ですね〜ちょっとこちらとは進路がずれています。どうも四葉達が狙いではないみたいデスよ?」

「そう・・・四葉ちゃん。敵機が向かう方向へ案内してくれない?たぶんそこに偵察機もいるはずだから」

 こんな大阪から遠く離れた何も無い山奥でファルクラム4機を投入してやることなんて、この場合は一つしかない。
 さらにヘリや地上軍ではなくて、戦闘機を差し向けるあたり、まだ偵察機は飛んでいる可能性が高いと見ていいだろう。
 ついている。運が良い。おまけにこの雨ではファルクラムのIRSTは機能を大きく減殺される。熱源を探知するIRSTは雨の中ではエンジン排気が直に冷やされてしまうので探知距離、精度が低下してしまうのだ。
 
「敵機は進路を変えマシタ。180秒後に交差シマス!」

「そうこなくっちゃね」

 少し気合を入れようか、と首を回らして固まった肩をほぐす。
 敵機もこちらに気がついたのだろう。MFDの液晶ディスプレイの中で、赤色の敵機のシンボルが大きく右に進路変えて、真っ直ぐにこちらへ突っ込んでくる。
 編隊は大きく間合いをとった戦闘隊形。超音速の妖精が必要とする空間はあまりにも広い。戦闘ならなおさらだった。

「首がごきごき鳴っているよ、さくねぇ」

「ほんと、もうおばあちゃんね」

 実際、老人のように骨の間に隙間ができているのだと言う。検査してくれたお医者さんの話では大Gで軟骨が磨り減るらしいのだ。
 改めて愛機のパワーがどれほどのものか再認識したところで、中距離AAMの射程圏内に敵機が入る。
 
「メビウス1、エンゲージ。フォックス3、フォックス3」

 火薬カートリッジの力でAIM−120アムラームが切り離される。
 同時にRWRが騒ぎ始める。AN/ALQ−135TEWSはオートモード。全自動でミュージックがスタート。ファルクラムのN−010ジュークレーダーに電子妨害を掛ける。ファルクラムは全自動で対抗ECCM。
 人の目には見えない電子の鍔迫り合い。
 ただ、がんばれと心の中で声援を送ることしかできない。
 空間を錯綜する電波の津波を掻い潜ってAIM−120は加速、母機とのデーターリンクで予想着弾地点に向けて舵を切る。
 Mig−29Mは回避よりも迎撃を選ぶ。OEPS−29、IRSTでのパッシブロック。R−73がパイロンから弾き出される。
 ストライクイーグルは電波を一切出さないパッシブロックのR−73の発射を探知できない。だが、HUDに表示されるTTAが0になる前に灰色の海の向うに見つけた赤い光でミサイルがその使命を果たす前に撃破されたことを咲耶は知る。
 レーダーはACMモードへ、戦闘は視界内戦闘へ移行する。ドッグファイト。
 上昇しながら接近するファルクラム。視界の端にそれを捉えつつ右旋回で背後へ回りこむ。
 灰色の雲の海、ファルクラムが雲間から航跡雲を引いて飛び出してくる。キレイだった。アフターバーナーを焚いている。黒いエンジン排気が見えない。速度はややこちらが上。
 右旋回で回りこもうとするファルクラム、ストライクイーグルは誘うように緩慢な右旋回。6時方向、理想的な攻撃点を確保するファルクラム。ストライクイーグルは打って変わって鋭く速い右旋回、ブレーク。ファルクラムは速度を落としながら追尾。

「今よ、イーグル」

 ストライクイーグルはクイックロールからの切り返し、左旋回。上昇、アフターバーナーを焚く。コントレールがループを描く。ループ頂上、背面飛行で空を見上げれば広大な雲海を見下ろすことができる。予測どおりにファルクラムは下方に一人取り残されていた。
 AIM−9LサイドワインダーはIRシーカーを開く。冷えた高空の空、Mig29のRD−33Kターボファンが毎秒8.3トンのペースで吐き出す膨大な排気ガスは隠しようがない。
 ピッチの速い短音がフラットな長音に変る。即座に兵装投下スイッチを押し込む。照準完了から発射まで一秒は必要ない。
 サイドワインダーは敵機を追尾、敵機は回避運動に入る。だが、あまりにも対応時間が少なすぎた。旋回に入ったところでサイドワインダーのアクティブレーザー近接信管がファルクラムを捉える。光感素子が反射波を受信、起動電流を信管へ流す。信管が作動。ミサイル、爆発。
 
「スプラッシュ・ダウン・バンデット!」

 燃えて落ちるファルクラムの破片を吸い込まないように間合いを取った。

「さくねぇ、4時方向に敵機!」

「忙しいわね!」

 私の声に答えるように敵機はミサイルを発射。
 オフボアイサイトからの攻撃、こんなことが出来るのはR−73アーチャー以外にない。
 ミサイルが迫る。エンジンをアイドルへ、降下で速度を稼ぐ。十分速度がついたところで高機動へ入る。イーグルは設計者の思考の端にすら上らなかった飛行領域へ突入する。  
 一瞬、まるで身震いするようにイーグルは震えた。それはアーチャーのアクティブレーダー近接信管から投射されたレーダー波に脅えたのか、それともこれから飛び込む飛行領域に対する歓喜の震えなのか、検討もつかない。だが、咲耶はこの時微笑んでいた。
 アーチャーの近接信管が作動、起爆電流が流れ7.4キロHE指向性破片威力弾頭が赤い火球に変る。
 衝撃波とスプリンターがストライクイーグルへと迫る。イーグルは狐が跳ねるように上昇、衝撃波を逃がす為に機首を上に向ける。衝撃波の余波がストライクイーグルを震わせる。だが、それではイーグルを墜すことはできない。
 イーグルは進路を変える。何かにつまずいたかのようにスピン、そこからさらにまるでブーメランのようにイーグルは飛んだ。一瞬の意識の消失とその後の覚醒。目の前にはファルクラムの双垂直尾翼があった。
 トリガーを引き絞る。M61A1ガトリングはスナップショット。ファルクラムの主翼が砕ける。
 
「おっと」

 イーグルは右急旋回。
 ジュラルミン、チタン、ファルクラムを構成していたあらゆる金属が弾丸に砕かれて天の川のように煌く。けれど、それはデリケートなコンプレッサーにとっては猛毒に等しい。
 バランスを崩して二度と立ち直ることのないスピンに入ったファルクラム。パイロットの脱出は確認できなかった。
 TSDモードも多目的液晶ディスプレイに視線を落として、敵機のシンボルが空域から全てなくなっていることに気付く。

「全機撃墜デス!咲耶姉チャマのスコアはこれで37デスよ!すごいのデス〜」
 
「褒めても何もでないわよ」

 けれど、悪い気分はしない。
 しかし、最初にいたのが4機で私が落したのが2機だから、残りを落したのは亞里亞ちゃんかな?ずっと姿が見えないけれど。

「亞里亞ちゃんは大丈夫かな?」

 心配など全く必要はないのだけれども、やはり万が一がないとは言えない。

「どうしたの・・・姉や?」

 妙に明瞭に声が聞き取れるので慌てて後ろを振り向く。そこにはまるで何事もなかったかのようにミラージュ2000と亞里亞ちゃんの不思議そうな顔がある。
 一瞬、もしやずっと亞里亞ちゃんは私の後ろにいたのではないかと思ってしまった。けれど、パイロンからミサイルが何発か姿を消しているのを見て自分の馬鹿な考えを打ち消した。

「そんなことあるわけないよね」

「どうしたの?さくねぇ」

 不思議そうに訊いてくる衛ちゃん。

「何でもないわ、それより偵察機は見つかった?」

「はーい、今こっちのレーダーで捉えたデスよ〜」

 戦術状況ディスプレイには山の向こうを渓谷に沿って飛ぶ友軍機のシンボルが現れていた。高度はかなり低い、エンジンか主翼に損傷があるのかもしれない。
 通信が入る。ノイズが酷かったけれど直にクリアーになった。

「こちら、レパード。助かったよ。もうダメかと思っていた。ありがとう」

 疲れているのか、U−2のパイロットの声にはあまり力がなかった。

「どういたしまして、レパード。こちらメビウス1、でもお礼は基地へ無事に帰ってからにして欲しいわね」

「ああ、そうだな。まだ気は抜けない。だがあんたが護衛ならもう安心だよ。噂は随分前から聞いていたが、ついに黄色まで喰ったそうだな。メビウス1」

「そうデスよ〜姉チャマは1ヶ月前に黄色中隊を一機撃墜しているのデス。さっきのファルクラムのパイロットも姉チャマを見て驚いていたのデス!」

「それ、ほんとう?」

「くしし〜無線を傍受してたのデス、えっへん!」

 どうやら四葉ちゃんは胸を張っていったらしかった。けれど、それでは薄いバストを暴露するだけだと思う。もちろん口には絶対出さないけれど。
 それにしても初耳だった。
 相手の機動の先読みならともかく、戦闘中に自分が敵からどんな風に思われているかなど考えもしないから、ちょっと興味はある。
 コホンと前置きしてから、四葉ちゃんは精一杯の声真似で戦闘を再現してくれた。たぶん全然似ていないけど。
 曰く、

「黄4を撃墜したリボン付きだ。警戒しろ、奴との単独戦闘は危険だ!」

「あれが飛行機の動きが、信じられん!」

「奴は人間じゃない、オーソーウェルスの火星人か!?」

 など、散々たるありさまだった。
 しかし、よりによって火星人襲来とは、子供のころに読んだ火星人襲来のタコ型火星人の姿を思い出す。

「火星人は酷いよね〜さくねぇ」

「そうよね、どうして火星人なんだろ?SFマニアだったのかな?」

 ソビエトの火星有人探査でとっくの昔に火星人なんていないことが分っているのに、どうして火星人なのだろうか?・・・撃墜してしまったからもう訊くことはできないけれど、可能ならば小一時間問い詰めてみたいものである。
 
「ま、いいさ。火星人だろうと何だろうと。あんたらがいてくれたら大丈夫だ」

「よくないわよ、タコ型火星人なんて御免よ」

「ああ、そうだったな。メビウス1ほどの美人にタコは失礼だったな」

 まるで悪びれもせずに言うU−2のパイロット、きっとこれが彼の地なんだろう。平常心まで立ち直ることができているなら、もう心配はなかった。

「そういえば、偵察はどうだったの?何か面白いものでも見つかった?」

「さぁな、悪いがそいつには答えられない」

 と、言いながら

「だが、佐渡島に大量の建築資材が運び込まれていた。何かあの島にはあるのかもしれない。何かとてつもない規模の、もしかしたらストーンヘンジのような・・・」

 直接見た本人もそれが何かよく分らないのだろう、偵察機のパイロットは語尾を濁していた。
 でも、それが本当だとしたら大変なことになるかもしれない。

「そんなこと言って大丈夫なの?」

「あんたらが黙っていてくれるならな」

「調子いいんだから」

 おしゃべりを切り上げて、機体をチェックする。
 BITを走らせて、さらに目視でフラップ、エルロン、エレベーターを確認する。機体の反応は何も問題ない。レスポンスは正常。負担の懸かる主翼のフレームにはクラッターが入っているかもしれない。けれど、それを確認する術はなかった。燃料流計、吸気温度、タービン回転数、どれも異常は見られない。全系統異常なし。
 そう、異常はない。
 何も問題ないはず。
 でも、どうしてだろう。何故だか首筋がちりちりする。息苦しくて胸を押さえた。
 なんて、酷い胸騒ぎ。
 データーリンクでAWACSのレーダー情報はきちんと供給されている。MFDにそれを表示させているけれど、何も変わったことはない。
 戦術状況ディスプレイには友軍機以外のブリップはなかった。でも、誰かに見られているような気がする。
 
「どうしたの、さくねぇ?」

 様子がおかしいことに気が付いた衛ちゃんが不安げに言う。
 
「敵機よ、探して。どこかにいるわ」

 一方的に言って、私は空に視線を走らせた。
 目はあまり良い方ではなかった。がんばっても2.0を超えない。けれど、敵機を探し出すときは何故か必ず1番だった。
 見上げれば群青の空、太陽。水平に広がる水色の空とどこまでも続く灰色の雲海。地平線の彼方まで雲の海と水色の空が続いている。不規則で、どこか規則的な雲の海。太陽と空と雲と、それだけしかない世界。凍てた高度5000メートルの風。巡航速度、マッハ0.8で流れて去っていく世界。おだやかな空だった。けれど、これ以上となく殺意を湛えた空。
 恐い、身が竦みそうだった。
 限界まで伸ばされたゴムのように、今にも弾けそうな緊張。
 四葉ちゃんはレーダーには反応がないと言う。けれど、レーダーに殺気を感じ取る本能はない。

「お兄様、咲耶をお守りください・・・」

 もう一度太陽を見上げた。太陽を背にした奇襲は基本中の基本。
 けれど、そこには何も無い。太陽が太古の昔と同じように光を放っている。
 ほっとして、今度は視線を下に向けた。
 灰色の雲に描かれた4機の戦闘機のシルエット、影の形は奇妙に歪んでいる。
 それは雲の不規則な歪みが作ったイタズラだと思った。けれど、直感が自分に嘘をつくなと怒鳴った。
 もう一度太陽を見上げた時、そこには一瞬前にはいなかったはずの敵機が魔法のように現れていた。心臓を鷲掴みされる。
 裏返った喉で一言。

「上よ!」

 右旋回、ブレーク。景色が横倒しになる。編隊は一瞬で散開。けれど全てが遅すぎた。敵機はミサイルを発射。狙われたF−15Cはフレア・チャフをばら撒く。だが、対応時間があまりにも短すぎた。

「脱出して、クルツ1!」

 火を噴いて、ウイングマンを乗せたままイーグルは空の階段を転げおちる。
 その間に敵機はもたつく亞里亞ちゃんのミラージュ2000に狙いを定めた。敵機に気付いている亞里亞ちゃんは緩い右旋回。敵機は条件反射のように食いついて間合いを詰める。
 けれど、それは誘いの罠だった。背後から亞里亞ちゃんのウイングマン、シエル1が接近する。典型とも言える2機編隊の基本戦術、サンドイッチ。敵機に僚機がいなければこれで勝負は決る。
 シエル1はミサイルを発射。R550マジック2は敵機を追尾。
 これで亞里亞ちゃんは救われる。それがどんな旧式なミサイルであれミサイルが飛んできたのに回避しないパイロットはいない。さらに、R550はサイドワインダーとタメを張れる高性能AAMだった。だけど、敵機は亞里亞ちゃんから離れようとしない。
 
「気付いていないの!?」

 それはありえないと直感が教えてくれる。
 直感は精密ではないが、正確だった。
 予測を超えて、直感どうりに敵機はミサイルを正面から迎え撃つ。敵機は突然スピン、そして唐突に立ち直る。亜音速で進行方向に機尾を向けながら敵機は飛び続ける。敵機はガン攻撃、ミサイルは命中1秒前に撃墜される。さらに敵機はミサイルを発射、R−73は薄い白煙を引いてシエル1に向かう。前向きに後方へ発射されたミサイルをシエル1は避けられない。シエル1は主翼を折られて墜落する。敵機は何事もなかったかのように機首を前方に戻し、パイロンから再びアーチャーを放つ。
  
「亞里亞ちゃん、避けてぇ!」

 ミラージュ2000は弾かれたように大G旋回、さらにフレア・チャフをばら撒く。けれど、それは気休めにしかならない。アーチャーは母機とのデーターリンクによりチャフ・フレアを無視してミサイルは突進。ミラージュ2000はもう一度フレア・チャフを撒いてスプリットS。間に合わない。R−73はアクティブレーダー近接信管を作動、ミラージュ2000を捉える。ミサイル、爆発。
 遠め目にもミラージュ2000が大きなダメージを受けたのが分る。フラップ、ラダー、パイロンが衝撃波で吹き飛ぶ、バラバラになった部品がまるで血飛沫のように舞った。敵機は破片を吸い込まないようにブレーク。ロールしながらミラージュ2000は落ちていく。一瞬、機体を立て直すけれど直に脱出装置が作動、キャノピーが吹き飛んで射出座席がロケットモーターの力で致命傷を負った機体からパイロットを救い出す。
 直にパラシュートが開く、ここからでは亞里亞ちゃんの無事を確かめることはできない。パラシュートは雲の海に沈む。下は雨だろう。雨を凌いでもここは敵地上空だった。生還するにはあまりにも多くの幸運が必要だった。
 血液が沸騰する。けれど、それを胸の奥にしまい込んだ。ここから先は機械のような平静さと正確さが必要になる。
 敵機はこちらに機首を向ける。強敵だ。機動性ならおそらくF−15E以上だろう。
 
「さくねぇ、もう燃料がないよ」

「分ってる・・・でも、戦わないと逃げられないわ」

 矛盾したことを言って、兵装セレクトスイッチはAIM−9L。レーダーはスーパーサーチモード。
 操縦桿を握りなおした。緊張で体が震える。
 けれど、ここで敵機は意外な行動を見せた。

「バンクしてる。敵じゃないかも・・・」

「こっちは亜里亜ちゃんを撃たれたのよ。今更間違いだったなんて通用しないわ」

 それでも、兵装投下スイッチが押しこまれることはなかった。
 何事も無く敵機とすれ違う。敵機は右旋回、背後についた。増速して並走する。相変わらずバンクしている。
 敵意はないという万国共通の飛行機乗りの挨拶だが、今更過ぎた。
 それでももう闘争の気配はない。ようやく落ちついて敵機を見ることができる。
 敵機は今まで見てきたどんな戦闘機とも違っていた。とりあえず機体だけとっても、ストライクイーグルよりも一回りは大きい。そして、特徴的すぎる前進翼。後退するはずの主翼が大きく前進していて、さらに夜戦仕様なのか黒で塗りつぶされた機体と合間って異様な雰囲気を醸していた。そう、まるで幻獣のような、神話から飛び出してきた怪物のような。
 けれど、東日本の国籍マークが辛うじてそれを現実の存在であると教えてくれる。
 敵機はただ併走するだけだった。それ以外の動きはない。

「一体何がしたいんだろ?」

「亡命・・・かな?」

 話しても結論はでそうにない。直接本人に訊いてみるしかないだろう。

「姉チャマ、何が起きているのデスか!?」

「今、敵機が直そこにいるわ。それと亞里亞ちゃんが撃墜された。脱出は確認したから、直に航空救難を出してちょうだい」

「何を言ってるデスか?敵機なんてどこにもいないデスよ?」

「ちょっと、ふざけないでよ。すぐそこに敵機がいるのよ!?」

「四葉のレーダーには何も映ってないデス!」

 泣きそうになりながら四葉ちゃんは言う。
 どうやら向こうはパニック状態のようだった。

「だろうな・・・ベルクートにはステルス性があるから、レーダーでは捉えられない」

 ぞっと、した。
 一瞬、昔小学生のころ聞いた怪談を思い出す。確か、電話の最中に死んだ幽霊の声がまじって、それを聞いた女の子が惨殺されるという話だった。
 耳が狂っていなければ、確かに今若い男の声がした。バックミラーを見ると衛ちゃんが顔を青ざめさせていた。怪談は数少ない衛ちゃんの弱点の一つだ。
 混線している。誰かがこっちの会話に割り込みをかけている。

「リボン付き、無線を今から教える周波数に合わせろ。それで会話ができるはずだ」

 聞いたことのない、低く響く若い男の声。
 けれど、どこかで聞いたことがあるような、何故か胸の奥で蠕動する何かがあった。直感がこのチャンスを逃してはいけないと言っている。

「衛ちゃん、お願い」

「でも・・・」

「どうしてもお願い。一生のお願い!」

 手を合わせて、頭を下げて、それでも足りなければ土下座をしてでも、このチャンスを逃したくなかった。
 結局、衛ちゃんはしぶしぶ折れてくれた。
 衛ちゃんが敵機のパイロットがいうとおりに周波数を合わせている間、私はほんの10数メートル向こうにいる敵のパイロットを見ていた。まるで空想にでてくるような、非現実的な戦闘機、それに跨るパイロットはバイザーを下していてどんな顔をしているのか分らない。
 けれど、時々視線が振られるのは分る。それは決して好意的ではないけれど、かといって敵意も感じない。まるで何かを案じているような、迷っているような、曰く言い難い温度の視線だった。
 
「できたよ」

 私は深く息を吸い込んで、インカムの向こうにいるパイロットに意識を集中させた。











「まず、あなたは何者?どうして私に話し掛けてきたの?目的はなに?亡命?」

 そんなに一度に質問したら向こうも答えられないよ、と言いたかったけれど、ボクはぐっと堪えた。
 何故かといえば、あまりにもさくねぇが必死な顔をしていたからだった。
 何をそんなに凄い顔をすることがあるのか・・・ボクには分らない。

「声を聞いただけじゃ分らんか・・・」

 敵機のパイロットは嘆息するように言って、突然黒塗りの戦闘機は突然バレルロール。
 思わず悲鳴を上げそうになる。向こうとこちらの間合いは10メートル足らずだった。亜音速で巡航するF−15Eにとってそれは至近距離だった。それそこ、袖擦り合うぐらいの距離。
 敵機は翼端を掠めるようにして飛ぶ、バレルの頂上で背面飛行。そのまま降りてくる。
 さくねぇは敵機と呼吸をあせてスロットルを調整している。まるで糸でつながれたようにするすると敵機は背面飛行のままF−15Eに近づいてくる。
 アクロバットでは見たことはあるけれど、あれは練習に練習を重ねているからできるのであって、ミサイルを積んだ実戦機で、しかも敵機を相手にやるようなことではない。
 座席の左右にあるサイドスティックが視界の中を行ったり来たりする。機体のコントロールを奪って、今すぐにでも逃げ出したかった。
 そうしている間に、敵機は抜き差しなら無いところまで降りてきていた。敵機の大きな双垂直尾翼がイーグルの機体に触れる寸前で止まっている。たぶん、向こうも同じだろう。下からではイーグルの双尾翼が向こうの機体に触れているようにしか見えない。
 見上げれば、手を伸ばせば届く距離に敵機のキャノピーがあった。
 当然だけど、その向こうにはパイロットが逆さ吊りになってこちらを見下ろしている。
 おもむろに敵機のパイロットはバイザーを下した。

「久しぶりだな・・・咲耶」

「お・・お兄様なの・・・?」

 お兄様・・・?
 さくねぇの声は震えていた。さくねぇはヘルメットをむしりとって、迎え入れるように手を伸ばす。
 さくねぇは泣いていた。もちろん、嬉しくて。そして、こんなときでも操縦桿を握った右手は微動にもしていなかった。
 もしそうでなければ、とっくの昔に接触事故でこっちも向こうもお陀仏であるのだけれども。やはり、ちょっと嫉妬してしまうくらいに、さくねぇの才能は凄かった。そして、それは真上の“お兄様”も同じだろう。
 “あの”亞里亞ちゃんを軽く撃墜できるぐらいなのだから。

「咲耶・・・大きくなったな」

「はい、もう10年にもなりますから。ずっと、ずっとお兄様のことを探していたんです。やっと会えたのよね、お兄様!」

「そうだな・・・」

 さくねぇとお兄様の会話は続く。
 だけど、それは多分会話じゃなかった。さくねぇだけが一方的に話して、さくねぇのお兄様はただ無感情なあいづちをするだけだった。
 でも、さくねぇは気付かない。
 見たことも無い、それはきっと誰にも見せたことものない咲耶ちゃんの本当の笑顔。けれど、それを受け取る人は笑いもしなかったし、泣きもしなかった。
 ただ、無感情にさくねぇは見下ろしている。
 無意味、たぶん・・・サハラ砂漠にジョウロで水を撒くぐらいに、この会話は無意味だ。
 でも、さくねぇは気付かない。
 
「お兄様、早く家に帰りましょ。私、こう見えても料理も得意なのよ」

 それはきっと、さくねぇが本当にお兄様のことが好きだから。肉親の、兄妹の愛情じゃなくて、本当に好きだから。10年も、お兄様のことを思い続けてきたさくねぇは、お兄様の視線も、表情も、薬指にはめられた銀色の指輪も、それが何を意味するのか分っていても、きっと認めようとしないだろう。
 さくねぇの想いは・・どうしようもなく届かない。
 目覚まし時計のように電子音、ビンゴフェル。もう燃料がなかった。
 夢が醒める。

「どうして・・・どうして、何も言ってくれないの、お兄様!」

 泣き叫ぶさくねぇにも、お兄様はただ無表情に言葉を返すだけだった。

「俺は敵と・・語る舌など持たない。リボン付き。お前は千影を殺した。俺から千影を奪った、別に恨んじゃいない。だが、もう俺はお前のお兄様ではない」

「知らない。私、千影なんて人知らない!」

「忘れたとは言わせない。1ヶ月前、ストーンヘンジ上空で、お前が落したSu−37。あれには千影が乗っていた。黄色の4と言えば分り易いだろう。そして、俺が黄色の13だ。リボン付き、もう二度と俺の前に姿を見せるな、次に空で会ったときは・・・お前を殺す」

「そんな・・・お兄様は勝手すぎるわ!お兄様だって、お父様とお母様も家も何もかも、私から奪ったじゃない!」

「俺が・・・?」

 初めて、感情らしいものがその目に浮かんだように見えた。
 それに畳み掛けるようにしてさくねぇは叫ぶ。

「そうよ、お兄様が撃墜した戦闘機が家に墜落して、お父様もお母様も、何もかも私は失ったのよ!私がどんな辛い思いをしたのか分る!?」

 けれど、一瞬だけ浮かんだ感情は、一瞬後には深く澱んだ瞳に沈んでいた。さくねぇのヒステリックな叫びは漣一つおこせない。
 どこまでも深くて、暗い瞳。
 その暗闇はたぶん、諦めと絶望の色だろう。けれど、その瞳は光を失っていなかった。
 たぶん、この人は善と信じるものを持つ人間なのだろう。信じるに足るものを持つ人間は、たとえ絶望の底にあっても決して希望を失わない。
 それはつまり、信義と呼ばれるものだ。
 人が人であるために、人外と人を分け隔ている最後の一線。輝けるもの。生命の意味と使い方の方程式を解く鍵。
 心の底から恐ろしいと思った。この人を止めることは、たぶん誰にもできない。
 けれど、諦めるという選択肢を最初から持ち合わせていないさくねぇは食い下がる。でも、この人には何の言葉も届かないのは明らかだった。
 手が届くほど近いところにいるのに、2人が立っている場所は天と地ほど遠い場所なのだった。
 そう、空には手が届かない。空の思いは地上の人間には遠すぎる。10年は長すぎた。2人はあまりにもすれ違いすぎていた。
 たぶん・・・人を殺してしまうくらいに。
 けれど、さくねぇはそれが分らない。分ろうとしない。

「分った・・・では、お互い殺し合いをする理由に不足はないわけだな」

「お兄様・・・・・」

 それは完全な決別で、微かにそこにあったはずの絆も今、全て断ち切られた。
 もう頭上にいるのはさくねぇのお兄様ではなかった。そこにいるのは東日本最強のエースパイロット、黄色の13。
 ここから先の会話には、もう言葉はいらない。
 必要なのは、高速で敵を追尾するAAMと毎秒100発のM61A1ガトリングの迸り。ここはRWSの囀りとチェフとフレアの煌きに満たされた妖精空間。
 問題は、燃料がもう無いことと、フランス義勇空軍最強の白薔薇“ロサ・ギガンティア”こと亞里亞ちゃんを叩き落した黄色の13に錯乱寸前のさくねぇがどこまで粘れるかということだった。
 勝ち目は薄氷ほどに薄い。
 けれど、ボク達の幸運はまだ尽きていないようだった。

「咲耶姉チャマ、応答してください!姉チャマ!」

 それまで閉じてきた通信回路を開けると、四葉ちゃんの悲鳴が飛び込んできた。
 データーリンクが復旧して、戦術状況ディスプレイが生き返る。そこには後60秒の距離まで接近した友軍機のマークが点滅を繰り返していた。2個小隊、8機のF−16Jが高速接近中。 

「お兄様、行かないで!」

 向こうもそれが分っているのか、無言で翼を翻した。
 さくねぇの呼び声は電子ノイズの中に木霊するだけで、もう何処にも届かない。
 
「咲耶姉チャマ、情報部からの緊急連絡デス!S−37というソビエトの新型ステルス戦闘機が――」

 さくねぇは四葉ちゃんの言葉を最後まで言わせずに無線を切った。
 操縦桿まで手放して、ハーネスまで外してシートに固く縮こまっている。外の世界を一切遮断して、自分を固く守るように。
 コントロールを失ったイーグルは不安定に揺れる。
 たぶん、このまま墜落して死んでしまっても、さくねぇはずっと縮こまったままだろう。いや、きっとそれそこがさくねぇの望みなのだろう。
 けれど、それに付き合うわけにはいかない。それに、それは間違ってはいないけれど、正しくないことだった。

「アイ・ハブ・コントロール」

 静かにボクは機体のコントロールを後席に移した。
 ようやく駆けつけた友軍機のコントレールが青い空に白く映えている。
 それを見上げながら、イーグルの翼は傷ついた心を労わるように静かに翼を翻した。







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