インターミッション2
「ちくしょう!少し有名だからって、いい気になるんじゃねぇぞ!」
と、ものすごい大声で兵隊さんは怒鳴るから、ヒナは怖くて目をぎゅっとしてしまいました。
でも、怒鳴られた大人の人は少しも怖がっていません。
それどころか、少し笑っています。でも、あんな風に笑われるのは少しイヤです。だって、とっても恐い感じがします。
「おいおい、そう怒鳴るなよ。負けは負けだろ。店から出ていきな」
そうだ、そうだ、と周りの大人の人は言います。
大人の人達はみんな同じ服を着ていて、肩のワッペンがすっごく、すっごくカッコイイと思いました。
ワッペンは金色の羽をした鳥さんの絵が刺繍されています。何の鳥なのかはわかりません。でも、一つだけわかったこともありました。
あの形のワッペンをもっているのは、とってもカッコイイ飛行機を飛ばす戦闘機パイロットさんだけです。
「いかさまだ!」
また、兵隊さんは怒鳴りました。
ヒナはこの兵隊さんがすっごく嫌いです。いつもヒナや白雪おねいたまや鞠絵おねいたまのお尻を触ったり、他にもイヤらしいことをします。
お酒もたくさん飲むのにお金も払わないし、いつもお店を散らかします。とってもお行儀が悪い兵隊さんです。
今日もヒナに無理やりお酒を飲まそうとしました。ヒナは嫌なので外へ逃げて、そこでパイロットさんにぶつかってしまったのです。
怒られると思ったのに、パイロットさんはヒナを優しくだっこしてくれました。そしてイヤらしい兵隊さんに「ポーカーで決めよう」と言いました。
ヒナはポーカーのことはよくわかりません。でも、パイロットさんが勝ったことはすぐにわかっちゃいました。
「いかさまだと?お前に運がなかっただけさ」
「5回連続でフルハウスが出るのがいかさまじゃないって言うのか!」
兵隊さんは酔っていました。
手に持ったワインのビンをテーブルに叩きつけます。ものすごい音がしました。ヒナはびっくりして、涙が出てしまいます。
「いいのか?俺は一応少佐だぞ」
「しったこちゃねぇ!」
割れたワインのビンはとがっていてとっても危険です。それを兵隊さんはパイロットさんに向けました。
「やれやれ」
兵隊さんがものすごい勢いで走って、割れたビンを突き刺します。
あんなビンが刺さったら血がすごく出て、死んでしまいます。もう恐くて目を開けていられませんでした。
でも、やっぱり目を閉じると恐いのでこっそり指の間から見ていました。
大きな赤い顔の兵隊さんは割れたビンを突き刺したのに、逆にものすごい勢いで投げ飛ばされてしまいました。
そのまま窓ガラスをやぶって外へ飛び出してしまいます。すっごく大きな音がしました。
確か、窓の外には生ごみの入ったポリバケツがあったはずです。とってもくちゃいので、ヒナは近づきたくありません。
「強いのですね、パイロットさん」
鞠絵おねえたまはカウンターにビールのビンを並べながら言いました。
鞠絵おねえたまはヒナが住み込みで働いているこのバーのマスターなのです。バーの名前はスカイ・キッズといいました。大阪よりちょっと離れたところにある小さなお店です。ヒナはこのお店がすっごく好きでした。
「あのお客さんには困っていたんです。お礼といっては何ですが、ビールを用意させていただきました。パイロットさんの見事なカードさばきに祝いの酒を捧げたいのですが」
「商売上手だな、マスター。そこまで言われたら断れないよ」
こいって、パイロットさんは手招きをしました。
なんでもない手招きなのに、パイロットさんがするとすっごくカッコイイのです。
どっと、お店の中にパイロットさんと同じかっこうをした人やちょっと汚れたツナギをきた整備員さんたちがなだれ込んできて、投げ飛ばされた兵隊さんの仲間を追いだしてしまいました。
「雛子ちゃん。注文お願いですの」
一気ににぎやかになちゃったお店は大忙しです。料理をつくるコックさんの白雪おねえたまにさっそくお手伝いを頼まれます。
「パイロットさん、今日は何にいたしましょう?」
ヒナはちゃんと注文がとれるように毎日練習しています。かっこよくて優しいパイロットさんから注文をとっていきます。
「兄くん・・・随分と派手にやったようだね」
振り返るとそこにはすっごくキレイな大人の女の人がいました。
今まで誰もいなかったのに、いきなり後ろに立っていました。ヒナはびっくりです。
「ああ、ちょっと捻ってやった」
「ちょっとね・・・兄くんは過激だからな・・・」
「おいおい、それじゃあ俺が危ない奴みたいじゃないか」
「おや・・・違ったのかい?」
パイロットさんと女の人はすごく仲良くおしゃべりをします。ちょっとヒナはおいてきぼりされたみたいで涙が出てしまいそうです。
「それにしても・・・君、お手伝いはいいけれど・・・・親御さんは心配しないのかい?」
女の人はヒナの頭をなでながらいいました。
ちょっとひんやりして気持ちのいい手です。
「あのね、ヒナにはパパもママもいないの。ちょっと前にね、お空からすっごく大きな飛行機が落ちてきたの。そうしたら、パパもママも寝ちゃったの。パパは酷いの、何度もヒナが起きてって言っても起きてくれないの。日曜日みたいに寝ボスケで困っちゃった・・・あれ?」
ヒナがパパとママのことを話すと、女の人は手を止めてしまいました。ママに撫でてなでなでしてもらってるみたいで、気持ちよかったのに。
見上げると、女の人もパイロットの人もすごく悲しそうな顔をしていました。
何か、悲しいことがあったのかな?ヒナには何があったのか分りません。
「・・・・お母さんやお父さんがいなくても・・・君はちゃんとやっているんだ。偉いね」
また女の人はなでなでしてくれました。パイロットの人もなでなでしてくれます。パイロットの人の手は暖かくて、大きくて、パパの手に似ていると思いました。
でもちょっとオイルの臭いがします。でも、ぜんぜん気にならないくらい気持ちよかったのです。
なんだか、とってもネムネムな気分でした。でも、
「パパもママも・・・兵隊さんに袋に入れられちゃってどっかへ連れていかれたの・・・ヒナはすっごくすっごく困ってるのに、帰ってこないの」
そのことを考えると涙が出てしまいます。
ずっと泣かないようにしてきたのに、パイロットの人と話すとどんどん涙が出てしまいます。
「そうか・・・よーし、それじゃあ今日はからヒナのお兄ちゃんだ。お父さんとお母さんが帰ってくるまで、ヒナを守ってあげる」
パイロットの人はヒナを優しく抱きしめて言いました。
「ほんとに・・・おにいたまになってくれるの?」
「ああ、本当だ。俺はヒナのおにいたまになって、ヒナを守る」
「ほんとにほんと・・・?」
「ああ、本当にほんとだ」
「ほんとに、ほんとに、ほんと・・・?」
「ほんとに、ほんとに、ほんとに、ほんとだ」
「さしずめ・・・私はおねえたまというところかな?」
女の人も言いました。また頭をなでなでしてくれます。
まるで、ママとパパが帰ってきてみたいです。
「雛子ちゃんよかったね、お兄さんとお姉さんができて」
「うらやましいですの〜雛子ちゃん」
ヒナは嬉しくて泣いてしまいました。
「ほら、よしよし」
女の人が優しく背中を撫でてくれました。
ぽんぽんと優しく叩いてくれます。女の人はとってもいい匂いがしました。お花の匂いに似ています。ヒナはつけたことないけど、香水の匂いだとわかりました。
「ほら、ヒナ。涙を拭いて」
女の人がハンカチを貸してくれました。
ハンカチも良い匂いがします。同じ香水の匂いでした。たくさん泣いたから鼻水も出てしまいました。でもヒナはちゃんとチーンできます。
チーンして、ハンカチを返そうとしたら、
「・・・そのハンカチは・・・君にあげよう・・・」
と、女の人はいいました。
女の人は眉間を指で揉みながら溜め息をついています。いったいどうしたのでしょう?
「・・・よーし、マスター何か甘いものを、ココアがいいな。ヒナに一つ頼む」
「はい、かしこまりました」
鞠絵おねえたまは大忙しです。ヒナが手伝おうとしたら、「今日はいいから」と言ってくれました。
「遠慮なんかしちゃだめですの」
と、白雪おねえたまも言います。
今日はとっても良い日です。おにいたまと新しいおねえたまができちゃいました。
それから、ヒナとおにいたまはいっぱい、いーーーっぱいお話をしました。
おにいたまは戦闘機パイロットで、おねえたまも同じ戦闘機パイロットであること。2人は昔からの仲良しであること。今日は南の方で、ものすごく大きな戦いがあって、おにいたまのお友達が大変な目に遭ったこと。
お返しに、ヒナもいっぱいお話をします。
パパとママのこと。近所のお友達のこと。急に映らなくなっちゃたテレビのこと。どこか遠くへ急に転勤になってしまった学校の先生のこと。急に変わってしまった学校のお勉強のこと。
おにいたまはちゃんと最後までヒナのお話を聞いてくれました。
でも、ヒナのお話を聞いているおにいたまはちょっとつらそうな顔をします。ヒナの話はおもしろくないのかな?
「隊長、7が病院から帰ってきました!」
「本当か!」
おにいたまは突然立ち上がりって、お店に入ってきた別のパイロットさんを出迎えました。二人で肩を叩き合って、とっても仲がよさそうです。
「今日・・・被弾してしまったパイロットだよ・・・病院に行っていたんだ」
と、おねえたまが教えてくれました。
それから、みんなは大騒ぎしながら突然ビールかけを始めました。お店の壁に飛行機の絵を描いて、それが5つ以上ある人にみんなでビールをかけるのです。
ビールをかけられた人も、ビールをかける人も、みんな笑っています。
何が楽しいのか、ヒナには分りませんでした。
「ちくしょう、俺より早くエースになりやがって」
と、みんながエース、エースといいます。何のことでしょう?
「ねえ、おねえたま。エースってなに?」
「うん、エースというのは・・・5機以上敵機を撃墜したパイロットに送る・・・そう、称号のようなものだね・・・」
「ふ〜ん」
ヒナにはよく分りません。でも、なんだかとってもかっこよさそうです。
「ヒナもエースになりたいな〜」
「それは・・・やめておいた方がいいと思う・・・」
「どうして?」
「・・・どうしてもさ・・・」
おねえたまは頭を少しだけさびしそうに笑って、頭をなでなでしてくれました。
「さて、そして我らの隊長、黄色の13のスコアは―――」
髪の毛のない、タコさんみたいな頭をした人が顔を真っ赤にしながら言います。
「5機増えて、67機!」
みんなが大喜びをして、おにいたまを注目します。
なんだか、ヒナもとっても誇らしい気持ちです。
でも、おにいたまは少しだけ笑っただけで、ギターを弾くだけでした。
おにいたまの弾くギターの音色はすごく大人っぽくて、胸がどきどきします。でも、なんだかさびしい感じです。
おにいたまはギターを弾きながらいいました。
「今日、みどころのあるパイロットがいたな・・・」
「俺に一発かました奴ですか?・・・リボン付きの」
「ああ、そいつだ」
おにいたまはゆっくりとウィスキーのグラスをかたむけて、ギターを弾きました。
「センスがある・・・後、もう少しだ。もう少しすれば、俺の前に出られるぐらいになる」
「前にでたらどうするの?」
ヒナが訊くとおにいたまは少しだけ笑って、頭をなでなでしてくれました。
「一度だけでいい、自分の技の全てを出し尽くして戦いたい。それだけだ、それに勝る喜びは無い。例え、結果として墜されても恨んだりしないだろう」
おにいたまはすっごく嬉しそうにいいます。でも、
「・・・だが、敵にそんな幸運は、ない」
おにいたまの目は悲しんでいました。
リボン付きのパイロットさんはどんな人なんでしょう?ヒナには分りません。でも、おにいたまをこんなに悲しませる人はきっと悪人に決っています。
それに、おにいたまが撃墜されたらヒナは泣いてしまうでしょう。
「おにいたま、どこにもいかないでね」
「ああ、どこにもいかないよ」
笑って、なでなでしてくれました。
おにいたまになでなでしてもらうと、すっごく気持ちよくて、ココロが落ち着きます。
「そろそろ・・お開きの時間だよ・・」
「そうだったか・・・じゃあ、引き上げよう」
また明日来るよって言うと、おにいたまやパイロットさん達はジープに乗って帰ってしまいました。
ヒナはジープのライトに向かって手を振って、お見送りします。
ジープに乗ったおにいたまは曲がり角の向こうに消えてしまうまで、ずっと手を振り返してくれました。
「雛子ちゃん。店じまいだから、手伝って」
「はい、白雪おねえたま!」
まずはテーブルの上のビール壜から片付けます。ヒナはお皿やビンを片付ける係りです。
「・・・雛子ちゃん」
「なあに?白雪おねえたま」
「あまり・・・あの人達と仲良くなってはいけませんの・・・」
「どうして?」
どうして仲良くしてはいけないのでしょう?パパもママもみんなで仲良くしなさいっていつも言っていました。学校の先生だけって、みんなで仲良くって言っています。
それに新しいおにいたまが出来たのに、仲良くできないなんて悲しいです。
「・・・・」
ヒナはちゃんと訊いているのに、白雪おねえたまは答えてくれません。
「ねえ、どうしてなの?」
「もうすぐだから・・・もうすぐ始まるから」
「何が始まるの?」
白雪おねえたまは黙ったまま、お店の中へ入ってしまいました。
どうして何も答えてくれないのでしょう?
ヒナは何かいけないことをしてしまったのでしょうか?でも、おにいたまと仲良くすることがいけないことだなんて、とても信じられません。
「おにいたま・・・」
ヒナはおにいたまの消えた曲がり角に振り返りました。
もちろん、おにいたまは戻ってきたりはしません。暗い、灯火管制された大阪の寂しい夜の街並みがあるだけです。
「何が・・・はじまるのかな?」
お星様に訊いても、答えは返ってきませんでした。
雛子の問いに答えられる人間の一人は大阪から遥か北にいた。
具体的に記するなら、赤衛艦隊の根拠地。北国の軍港、真岡の外れに佇むやや寂れたバーのカウンターにいた。
突然のくしゃみに体を震わせて、慌ててコートの襟を引き寄せる。
海軍制式の将校用コート。やや深い、くすんだ緑色のコートを可憐は嫌いではなかった。特に、こんな寂れたバーにはお似合いだと思っている。
他の客もおよそ同じような、冬の寂しい色合いに身を包んでいて、ただでさえ薄暗いバーの光を吸い取っていた。
ただ、静かに時だけが過ぎていく。
手の中で弄んだ階級章が指の間からすり抜けて落ちた。
大佐の階級章、今は准将に昇進していた。負けたのに昇進とは不思議な話だと思う。こんな不合理な処置をしてでも、上層部は赤衛艦隊の敗北を糊塗したいのだろう。努力は認めるが、方向性は間違っている。
ショットグラスを口に運んで、乾いた唇をバーボンで湿らせた。舌を滑るバーボンはやけに苦く感じられた。
防音が効いているのか、外の雪風もここまでは聞こえない。空気の流れが澱んで、どこか甘い香りを醸していた。
カランと、ショットグラスの氷が転がって、音を立てる。
琥珀色に氷を染めるのはバーボン、フォア・ローゼス。
どこのバーへ入っても、バーボンはこれしか飲まないと決めていた。
理由は単純で、初めてバーカウンターに座ったとき、最初に目に付いたフォア・ローゼスだったという程度でしかない。
だが、沢山のボトルが立ち並ぶカウンターで、フォア・ローゼスのボトルだけが目に止まったのは、ラベルに描かれた4本の赤い薔薇のせいだけではないとも信奉していた。
「遅くなりました」
声がする方に振り返る。反応が一瞬だけ遅れた。少し酔いが回っているらしい。
「遅いわよ、副長」
「すみません、タクシーがつかまらないので、歩いてきたのです」
「なるほど」
嘆息、とはいえ仕方がないこととも言えた。
ただでさえ貧弱な東日本の経済を戦争は直撃している。既にガソリンの配給は止まり、闇ルートでなければガソリンは庶民には手の届かないものになっていた。この時間にタクシーを拾えたら奇跡と言える。
「ただでさえ暗い街なのに、灯火管制をしているせいで、二回も転んでしまいましたよ」
「灯火管制ね・・・物はいいようだわ」
副長のコートは裾が少し泥で汚れていた。
席を立って、ハンカチできつく拭う。白いハンカチは泥を吸って汚れた。副長は慌てて制止したが、可憐は手を止めるつもりはなかった。
自分よりも遥かに年上で、主砲塔で煙草を吸った政治士官を殴り飛ばさなければ戦艦解放の艦長に納まっていたはずの副長に、尊敬と敬愛だけでは表現しきれない感情を可憐は抱いていた。或は、羨望とさえ言っていい。
「灯火管制といえば聞こえがいいけれど、実際は電力を軍需工場へ回しているだけ・・・そうして兵器を生産しても、戦場に届く前に貨物列車の荷台で消えてしまう」
「そんな国が2年も戦争を続けられるのは、我らの思想が正義であるという証拠にほかならないと、どこかの書記長は言っておりますな」
2人の視線が交錯して、
「冗談じゃないわね」
「冗談ではありません」
ぴたりと一致した。
「私は時々思うの、ジャンヌダルクは幸せだったのかなって、本当は普通の女の子として生きて、死にたかったんじゃないかなって、最後には火あぶりじゃ、救いが無いよ」
「同情はします。しかし、本人が選んだことです」
「そうだったね、同情はジャンヌダルクに失礼だね」
傾けたグラスは空になっていた。マスターが無言で新しいグラスをよこす。
フォア・ローゼスのボトル、赤い薔薇の花。
「あんな風に凛として生きていけたらな」
「・・・お察しいたします」
自分達のしようとしていることは、少なくともあんな薔薇のように凛してはいない、それこそ日陰の花のように薄暗く、惨めなことだった。
「これは艦長に頼まれていた資料です」
足元の書類かばんから、副長はマニラ封筒に包まれた書類束を取り上げた。
「もう艦長じゃないよ」
と、受け取りながら軽口。とはいえ、何か役職についているわけでもない。有体に言えば干されていた。
マニラ封筒の中身は、人民海軍の機密資料である。当然、禁帯出で、持ち出せば銃殺では済まない。
この店は海軍ご用達の、共産党も、内務省調査部の目も届かない、つまりこういうことをするための密会所だった。
マニラ封筒を受け取る代わりに、分厚い茶封筒を返す。
「ありがとう、資金が足りなければいつもで言って、すぐに用意できるから」
「ありがとうございます。これで孫に土産を買ってやることができます」
「・・・お金の出所は聞かないのね」
「艦長は・・・この金が臭いますか?」
冗談まじりに言う副長。首を振って答える。
例えどんな汚い場所から出たお金でも、お金が臭うはずも無い。そう、ローマの皇帝がトイレに懸けた税金で豪遊しても、香水の匂いはしても、汚物の臭いはしなかっただろう。
「副長の所見が聞いたいわ。どう思う?」
「9割の確率で、4月末に上陸作戦決行でしょうな・・潮の満ち引き、海水の水温、天候からして、最短で4月です。」
「どこへ彼らは来ると思う?」
「9割で、志布志湾。1割が吹上浜です。宮崎方面はストーンヘンジの射程内なので除外してよろしいかと」
「この前会ったドイツ義勇軍の少佐は9割で吹上浜と言っていたわ」
可憐は全く信頼しきった調子で言った。
なぜならドイツ軍人がそう言ったのだ。ドイツ人特有の高慢さは癇に障るけれど、彼らの軍事的な才覚を信頼しないはずが無い。何しろドイツ軍なのだから。
「さて、私が話を伺ったのは南九州防衛を担当する第40軍司令官でしたが・・・どうやら上は対応に苦慮しているようですな」
「忘れてはいけないわ、私達の上にいる連中がどうしようもないバカで、私達の敵がおそろしく利口であることを」
「と、すると吹上浜でしょうな・・・ドイツ義勇軍は強硬に吹上浜の水際防御を主張していたと記憶しています・・・ロシア義勇軍とその他は内陸での持久を主張しておりますが」
可憐はその他が少し気になったが、すぐに答えが出たので頭を振って自分の愚かな考えを消し去った。
イタリア義勇軍やスペイン義勇軍など、その他でなければ、一体何なのだろう?
それにしても南九州への上陸作戦か・・・溜め息をつく。ドイツ義勇軍の言うとおり水際防御がベストなのだろうが、それは半世紀前、まだこの国が帝国を名乗っていた頃に米軍相手に失敗したシナリオだった。
少なくとも、ここ半世紀の間で水際で敵軍の上陸を防いだ例は聞いたことがない。オーバーロード作戦も、オリンピック作戦も、上陸する側が常に勝利を収めている。
史実を踏まえるのならば、内陸での応戦だろうが・・・一度上陸されたら後は押されるだけだろう。単純計算で2倍以上に広がった領土を守るために、人民陸空軍は戦力の分散を強いられている。これでは各個撃破されるのがいいオチだった。
元々、この戦争は西日本の首都である大阪が陥落した時点で終了していなければならないはずなのだから、既に息がきれた東日本にもう一度西日本を海に追い落とす力は残されていない。
上陸されたら、後は敗北への坂道を転がるだけだった。
そもそも、赤衛艦隊が壊滅して制海権を失った時点で、この戦争は負けなのだから・・・次の上陸作戦がこの戦争をドローへ持ち込む最後のチャンスだろう。
そして、私は東日本が上陸作戦を阻止するの“阻止”しなければならかかった。
「ありがとう・・・参考になったわ」
「いいえ、それでは失礼します」
と、足早に立ち去る副長の後ろ姿を可憐は見送った。
孫の顔が早く見たいのだろうと見当づける。初孫で、女の子らしい。可愛いさかりなのだろう。まだ尋ねたいことは幾つかあったが、あえて可憐は訊かない。
ある一定の年頃までしか感じることが出来ない何かが子供に存在することを可憐は信じていたし、それを独り占めするという老いた副長のささやかな幸福を妨害するなど、可憐にとっては想像の埒外だった。
もちろん、可憐は悪意の存在を否定はしない。何しろ自分こそ、この東日本で一番悪意ある人間の一味であるから。
「彼は信頼できるのかね?」
「閣下の俗物ぶりに比べたら、可愛いものです」
一旦言葉を切って、一息に続ける。
「海軍情報部部長、天広中将閣下」
音もなく、それこそ気配すら感じない、幽霊じみた足取りで隣に座る初老の男に可憐は一瞥もくれない。
視線はずっとバーボンの海に泳ぐ氷に注がれている。
手に残る氷の冷気に反比例するように、氷はどんどん痩せ細っていく。それを止める手立ては無い。
「この戦争は負けだ」
「私達が情報をリークするからでしょう」
「人間は愚かな生き物だ。勝利から何も学べない、敗北からしか何も学べないのだ。祖国は一度敗北しなければ、変われない」
言い聞かせるように言う天広に、可憐は冷ややかに答える。
「その結果、この国の全ての山河が屍山と血河に変わってしまったとしてでもですか?」
「変わってしまったとしてでもだ」
と、答える天広の声に迷いは無い。
それならいいですと、可憐は答える。
70年代から改革に失敗し続け、それを隠すために野放図な軍拡で表面的な経済成長を取り繕い、それが完璧に行き詰ると武力で豊かな西日本へ侵攻し、その膨大な資産を強奪することで借金を返済する。
複雑にして単純、最高にして最低の借金返済最短理論だった。要約すれば、この戦争は東日本による計画倒産とその帰結と答える他ないのだった。
そんな恥知らずな国家がこの世に存在していていいのだろうかと、良心が訴える。
つまり、可憐の属しているグループはそんな国家の消滅を願う一派であった。
「早ければ、4月に西日本軍は吹上浜に上陸するだろう」
「海岸は血で染まるのですね」
「止む得ないことなのだ。全ては祖国を救う為の一過程に過ぎない。大局を見失うな」
「・・・私は冷静です」
しかし、グラスを小刻みに震え、力を込めて押さえつけなければ喉からは懺悔が飛び出しそうだった。
何故ならば、浜辺で死に逝く勇者にとって、可憐は裏切り者以外の何でもないから。
咳き込む、フォア・ローゼスの薫りが喉を焼いた。天罰と思うことにした。
「知っていますか、閣下。今この国あちこちで提灯行列や戦争擁護のデモが起きていることを」
「知っている」
答えは短かった。
「みんな怖いんです。勝者の復讐が。ある日空っぽだったはずの公営マーケットに入りきらないほどの商品が溢れているんです。どうしてでしょうね?子供でもわかる話でしょうけど、閣下は分りますか?」
「西から東へスライドさせただけのことだ」
「ええ、そうでしょうね。分っています、分っているんです。それはみんなが望んだことだから、誰だって良い生活したかったんです。良い夢を見たかったんです。一種の病気ですね、熱病みたいなものでしょう。でも、夢はとっくの昔に醒めてしまっているんです。タダで手に入れたテレビに映るのは軍のプロパガンダだけで、せっかく手に入れたランドセルも半年もしないうちに冬を越すために石炭と交換しなければならなかったんです」
カラカラに喉が渇いていた。
バーテンダーが空のショットグラスに水を注いでくれる。一気に飲み干したら少しだけ心が落ち着いた。
「何でこんなことに・・・なってしまったんでしょうね」
全てを言い終えてしまうと、あとに残ったのは言いようのない虚脱感とやり場の無い怒りだった。
「私はオフィスに戻る」
「・・・どうぞ、私はもう少し飲んでいきます。道中、お気をつけて。裏切りの罠から閣下が逃れられることを祈っています」
「私は21世紀のカナリス提督になるつもりはない」
会話は唐突に始まって、唐突に終わった。
一瞬だけ、ドアの隙間から冷気が吹き込み、そして元の静寂に帰る。
傾けたグラスはまた空になっていた。マスターが新しい酒をよこす。一気に呷ったバーボンが胸を焼く。
乱暴な飲み方だと思う。だけど今日は少し、凶暴な気分だった。
カウンターに現役書記長の顔が印刷された紙幣を数枚。バーテンダーは何も言わずに、明らにバーボン数杯ではお釣りがくるだけの金を受け取る。
それがこの店のルールだった。
外に出ると、明かりはなく、暗い街並が広がっていた。目が慣れるまで少しだけ夜空を見上げて立ち尽くす。
星がキレイだった。昔から、この国は星がキレイで、月影の晩は夜遅くまで起きていた。西日本の街は明るかったけれど、夜空はくすんで見えたと思う。
目が慣れてきて、ふらりと夜の街を歩き始めた。
ちらほらと人の明りもある。人通りは少ない、北国の繁華街だった。だらだらと外を歩いていては凍えてしまう。
手近な、いつもなら入らないチープなバーへ足が向いた。
政府の目を逃れた密造の、泥水のようなウイスキーを海外の銘酒の壜につめてカウンターに置くような、屑みたいな店だった。
でも、今日はそれで良かった。
今夜は、滅茶苦茶に酔いたい気分だったのだ。
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