ACECOMBATSISTER

shattered prinsess

エースコンバットシスター シャッタードプリンセス







インターミッション1


 私は窓を開けた。
 入ってくるのは夜気に冷やされた朝の空気。
 風は消毒液に歪んだ病室の空気を吹きはらう。
 清々しい朝の空気が徹夜でほてった頬を優しく撫でる。
 
「衛ちゃん。朝だよ」

 返事はない。
 ベッドの上で衛ちゃんはピクリとも動いていない。微かに胸が上下していけなれば、まるでお人形みたいだ。
 全身をくまなく包帯で覆ったお人形。ミイラみたいだと思ったこともある。

「どうして病院は白いものが好きなんだろうね」

 医者は患者になるべく話しかけて欲しいと言っていた。
 そうすることで意識の戻る可能性は随分と違うらしい。だから、私は一晩中眠ったままの衛ちゃんに話を振り続けていた。
 
「包帯も白でしょ、壁の色も白でしょ、布団まで白じゃない。こんなに白くしていったい何考えているんだろ。不思議じゃない?」

 真っ白な部屋の中で、衛ちゃんの顔だけが妙に浮いていた。
 そっと衛ちゃんの鼻を摘む。
 点滴チューブが通された鼻は硬かった。
 
「ほーら、息ができないぞー」

 一人で笑う。
 衛ちゃんの小さくて可愛い鼻。何度か眠っている時に摘まんだこともある。
 だんだん息が苦しくなって寝ぼすけの衛ちゃんは目を覚ますのだ。
 その度に衛ちゃんは抗議するんだけど、それが面白くて私は何度もこの悪戯を繰り返した。

「ねえ、起きてよ」

 衛ちゃんの手を握る。
 衛ちゃんの手はオイルが染み込んでちょっと汚いけれど、暖かくて安心できた。
 そんな衛ちゃんの手が内心羨ましい。
 衛ちゃんは私の手が綺麗だというけれど、私の手は冷たくて血まみれだ。
 殺した敵の返り血はべっとりと洗っても洗っても落ちはしない。そして、今は衛ちゃんの血で私の手は真っ赤か。
 衛ちゃんの手は血の気がなくて、冷たくて、青白くて、私に血を返せと責め立てる。
 
「ねえ、起きてよ」

 形のいい衛ちゃんのバスト、胸の谷間は包帯とガーゼで覆われている。
 そこには一生消えない傷跡。
 私が傷つけた、痕。
 小さな破片がまだ体の中に残っている。
 私がめちゃくちゃにした衛ちゃんの体。

「ねえ、起きてよ・・・起きてったら!」

 強く揺さぶりすぎて、心電図が外れる。
 全身にくまなく繋がれたチューブが音を立てて剥がれた。
 最初からフラットだった脳波計が単調な電子音を響かせる。
 点滴が、剥がれてぽたぽたと雫をたらした。
 私の涙が、甘いブドウ糖溶液に塩分を混ぜる。

「起きてよ・・・衛ちゃん」

 衛ちゃんは拗ねたように何も答えない。
 遠くからスリッパに似た足音が響いてくる。
 ああ、またやってしまった。また看護婦さんに怒られてしまう。

『あなたは患者を殺す気なの!?』

 と恐ろしい形相で年配の看護婦さんは怒る
 そんなわけはないだろうと思う。
 こんな筈じゃなかったのだ。
 私は窓辺に寄りかかった。立っていることすら辛すぎる。
 やがて、看護婦さんが凄い顔をして入ってきた。
 お医者さんも一緒に入ってきて、病室は凄い騒ぎになっている。
 口々に看護婦さんやお医者さんが何かを言うけれど、私の耳は開店休業みたいなものでさっぱり脳まで届いていない。
 私は騒ぐ看護婦さんに生返事を返しながら全く別のことを考えていた。
 衛ちゃんは・・・まだあの空から帰ってきていないのではないか?と、あの地獄みたいな空から私は帰ってこれたけど、衛ちゃんはまだ囚われたままじゃないだろうか。
 私はあの日の空を思い起こした。






「さくねぇ!ミサイル!!」

 悲鳴をあげる衛ちゃんと弾かれたように振り向く私。
 背後には黄色いSu−37。パイロンから切り離されたミサイルは2発。ロケットモーターに点火、白煙を引く。
 反射的に操縦桿を引いて、さらにロール。フットペダルを蹴ってラダーを効かせる。
 バレルロール、フレアの白々とした炎が機体を照らした。
 ミサイル警報は鳴らない。コックピットは実に静かだった。IRSTで照準されるR−73はレーダー波を一切出さない。
 息の詰まるような沈黙の中で焦燥だけがじりじりと燃える。
 R−73ア−チャーのIRシーカーは赤外線画像認識、フレアを無視。シーカーは機体前縁の摩擦熱を捕らえ、さらにJ79エンジンの排気を捉えた。
 アーチャーはファントムを追尾。
 逃げるファントムは更にラダーを踏み込む、トリップラダー。機体は滑り、バレルの頂点が大きくずれる。
 予測を外されたアーチャーは大きくコースを外され、再び追尾へ戻ろうとするが大Gで戻れない。急激な追尾運動で固形燃料が尽きる。
 だが僅かに遅れて発射された2発目のアーチャーからは逃れられない。
 2発目のR−73こそ本命の一撃。アクティブレーダー信管が作動する。次の回避運動に入ろうとするファントムを電子の網が絡み取る。爆発より一瞬早くファントムはチャフを射出。狙いが僅かにずれる。ミサイル、爆発。

「しまっ・・!」

 言い終える間もなく衝撃波で意識が飛ぶ、暗転。
 だがこめかみをつんざく激痛が意識を繋ぎとめる。破片が突き刺さって砕けたバックミラーにはこめかみに突き刺さったミサイルの破片が映っていた。
 だが、それに構う余裕はない。
 例え、後少しチャフの射出が遅ければ、直撃となったミサイルの破片が脳をヘルメットごと吹き飛ばしていたとしても、今はそれどころではなかった。
 
「さくねぇ!イグジェクト!」

「ダメよ!」

 下は大時化、脱出しても確実に溺れて、死ぬ。
 機体はロールしながら緩やかに降下。高度がなくなっていく。
 
「エンジンが燃えてるよ!もうダメだよ!」

「黙って!」

 振り返る、2基のエンジンからは赤い炎、そして黒煙。機体には大量の破片が突き刺さっていた。
 
「再始動するわよ」

「間に合わないよ」

「どうして分るの!?」

 押し問答をしている暇はない。まだ何か言う衛ちゃんを無視する。
 計器版に視線を走らせた。分厚い雲が割れた風防からなだれ込む、寒い。耳が鳴る。風圧で瞼を開けることすら難しい。
 エンジン回転計、右エンジンrpmスタック。エンジン火災警告灯が赤く灯っていた。
 右のエンジンが燃えている。自動的に燃料移送がカットされる。自動消火装置が作動。
 風防の割れ目から雨が吹き込む、上手くすれば炎が消えるかもしれない。左右のエンジンに隔壁のないファントムは良く燃える戦闘機として知られていた。
 まだタービンの回っている左エンジンに望みを託す。
 ファントムは突然ロールする、機体が暴れ始めた。
 焦燥で神経が焼ける。お兄様の顔が脳裏を掠めた。頭を振ってお兄様の幻を振り払う。消えなさい、死神。頭に激痛が走る、こめかみの傷を忘れていた。出血が酷い。
 ロールを止めるために操縦桿を右へ倒す。ロールが止まらない。操縦桿の操作に全く機体が反応しない。
 油圧計が異常を知らせていた。機体を操作する油圧が足りない。
機体はさらにロールしながら降下を続ける。
 降下が速度へ変換される。左エンジンが対気流で回転数を上げた。FTITは700度を切っている。スロットルを押し込んだ。イグニッション、スパーク。燃料流入計が上昇する。エンジン回転計も上昇する。
 J79エンジンの振動、左エンジンが蘇った。
 電圧、油圧が回復する。操縦桿を右へ倒した。応は鈍いが、ロールは止まる。
 海面は直そこだった。荒れる暗い海面は大きく畝っている。操縦桿をそろそろと引いた。急激な運動でエンジンに負荷を掛けたくない。
 落ちるばかりだった機体を水平に戻る。やはり機体の反応は鈍い、機体は異常な振動を続けている。
 それ以上に体の震えが止まらなかった。コックピットに与圧などない。雨に濡れたGスーツが吹き込む強風で冷やされた。出血も酷い、指先がしびれて来た。
 風圧で開かない瞼に血が重なって視界を閉ざした。何も見えない。
 手探りで自動操縦装置に切り替える。
 途端にファントムは急上昇、そのまま横転、ループを描く。雨を切り裂きながら降下。
 慌てて手動操縦に切り替える。
 操縦桿をそろそろと引いて、機体を水平に直す。
 
「自動操縦装置が壊れた?・・・ううん、中央コンピューターが故障したのかしら」

 もしそうなら、この異常振動も納得がいく。機体の制御にファントムはコンピューターの力を借りている。
 顔に吹き付ける雨粒で顔を拭ったが、目は見えない。
 失明したかもしれないと考えて、背筋が凍った。

「衛ちゃん、操縦を代わって」

 ファントムは後席にも操縦桿がある。いざとなればRIOに操縦を頼むこともできる。
 だけど、返事がない。

「衛ちゃん、起きて!」

 振り向こうとして、それが意味のないことだと気が付いた。
 どのみち目が見えないので、どんな状態なのか知りようがない。
 
 深刻な怪我をしているのかもしれない・・・

 背筋はとっくの昔に凍りついていた。脊髄の代わりに氷柱に突っ込まれた感覚。冷気が伝わって、指先まで凍っていく。
 ただ頭だけが風邪をひいたときのように熱かった
 風圧、雨と風だけしか感じられない。操縦桿を握っているかどうかも怪しいものだった。
顔にぶつかっては弾ける雨粒と風防を吹き抜ける風、残ったの感覚はそれだけ。もう上下左右も分らない。空間失調、バーディコ。
 機体は水平のはずなのに、降下しているのではないかと不安になる。操縦桿を引きたい誘惑に駆られる。
 そもそも、機体が水平であるという確信などなかった。ほんとうに降下しているのかもしれない。
 どっちだろう・・・ぜんぜん分らない。
 急に心ぼそくなった。闇の中で、一人虚空に浮かぶ自分をイメージする。
 不意に、お兄様と別れたあの夏の日を思い出した。あの時は部屋に閉じこもって、カーテンを閉め切って真っ暗な部屋で一晩中泣き続けた。
 今がそれ似ている。無性に悲しかった。頬を伝う雨のいくらかは涙であるかもしれない。
 お兄さまの顔を思い出した。一緒に遊んだ夏の日の思い出や家族旅行でいった南の島、小学校のお友達、中学校の友達、仲の良かったピアノの先生、訓練校で出会った衛ちゃん、熊みたいな野本教官、迷子だった四葉ちゃん、ミラージュパイロットの亞里亞ちゃん。
 いい思い出ばかりが浮かんでは消える。
 うん、悪くないと思った。私は幸せだった。お兄様がいないのが不満だけれども、私は十分に幸せな人生を送ってきた。
 もう辛いことなどなかった。冷たい雨も暴風も感じない。体が温かな、濡れた髪の間を抜けるドライヤーの温風の温みに包まれる。私はその風に身を委ねた。
 酷く眠かった。目が見えないのは都合がいい。このまま寝てしまおうと思って、私はシートから突き抜ける衝撃に目を覚ました。
 
「姉や〜姉や〜起きてなの〜」

 酷く遠くから亞里亞ちゃんの声が聞こえたような気がした。
 再び衝撃、ヘルメットを風防にぶつける。激痛、目が醒めた。
 巨大な鈍い衝撃、巨大な物体どうしが衝突する特有の鈍さと振動。ずいぶんと手の荒い起こし方だと思う。

「起きたわ・・起きたからもう止めて」

 今度は自分からヘルメットを風防にぶつけた。つんざくような激痛、痛覚と一緒にある程度感覚が戻ってくる。
 また暴風と雨が顔にぶつかって、弾けて飛んでいく。
 戦闘機パイロットになってからはお化粧を控えているけれど、口紅くらいはさしている。きっと酷いことになっているだろうと考えてため息、風圧で吐けない。
 無線が壊れているのか、こっちの声が届いていない。また衝撃、風防にヘルメットがぶつかる。
 虫歯にアルミホイルを詰め込むような、金属質の激痛。死んでしまう。
 
「もうっ・・!

 スロットルに張り付いたままの手を上げて、振った。きちんと振れた自信はなかった。感覚がない。
 閉じたままの目を開けた。右目は見えないが、左目は少しだけ光を映した。

「良かったの〜姉や」

 手が届くくらいの場所に亞里亞ちゃんのミラージュが飛んでいる。
 隻眼では遠近感が効かない。ぼんやりとした視界の中で飛ぶミラージュ2000は酷く非現実的だった。
 私は夢を見ているのだろうか、それにしては酷く現実的でもある。
 
「だいじょうぶ?・・・・だいじょうぶ?・・・姉や〜」

 泣いているのか、亞里亞ちゃんの声は枯れていた。時々しゃくりあげる音が混じる。無闇に後味の悪いものが胸に積み重なる。酷く、心臓が重い。
 無線は壊れている。手を振ることで答えるしかなかった。
 親指を突き出して、拳でポーズを決める。

「衛姉やは・・・クスン・・・だいじょうぶ?」

 振り返る。いつもそこにある笑顔はどこにもない。紫外線を防止する黒いバイザーが一切の表情を消しさっていた。
 ぐったりと、背を折り曲げている衛ちゃんは酷く小さく見える。私は痛む手を伸ばして酸素マスクに手を掛けた。外す、途端せき止められていた血流が溢れて、フライトグローブを赤く染めた。
 血が流れ続ける。赤い滝が、顎からシートへ長々と続く。
 吐しゃ物の混じった血がフライトスーツを赤く汚していった。視線を血の流れに乗せる。顎から順に首へ、そして胸へ。破片、大きな破片が深々と衛ちゃんの胸に突き立っていた。
 破片を抜こうとして血で滑った。
 剃刀より鋭く、ジェラルミンを簡単に切り裂くミサイルの破片。フライトグローブも簡単に切れた。痺れるように痛む。深い傷、出血はそれほどでもない。手先まで回す血はなくなっていた。
 ふと振り向くと、もう雨は止んでいた。地平線に夕日が消えていこうとしている。夕焼けに赤く染まった雲のように、私の手は衛ちゃんの血で赤く染まった。
 意識が混濁する。
 暗い闇が視界を侵食していく。貧血の起きる前に似ていた。後頭部に血が溜まって水平が保てなくなる感覚。
 薄れていく意識を繋ぎとめるように、誰かの悲鳴が聞こえる。
 誰だろうと考えて、しばらくしてから自分しかいないことに気が付いた。
 悲鳴が止まらない。
 喉が潰れて声が掠れて切れるまで叫び続けた。

 悲鳴が止まらない、悲鳴が消えない。






 病室から追い出されて、廊下に立ちつくす。
 目を閉じて、耳を手で塞げばどこからか悲鳴が聞こえてくる。
 しばらく寝ていない、お風呂にも入らず髪も梳いていない。昨日は医者の出してくれた睡眠薬で久しぶりに眠った。朝、姿見で見た自分は一気に10年老けてしまっていた。
 この分なら、下手なダイエットも必要なく、私は激ヤセするだろう。

「姉や・・・」

「亞里亞ちゃん・・・」

 声を掛けられるまで気が付かなかった。いつの間にか傍に亞里亞ちゃんが立っている。
 いつも妖精みたいなピュアの笑顔を振りまいている亞里亞ちゃんも今日は暗く沈んでいた。まるであの日の天気のように。
 静かな病院の廊下。石のような沈黙が重く、息苦しい。

「ごめん・・・」

 脇を通り抜けようとして、手を掴まれた。

「こんな時に一人になったら、ダメなの〜」

 見上げる亞里亞ちゃんの目じりに涙、思いつけたように口をつぐんでいる。
 返す言葉もない。

「・・・いっしょにいくの」

「でも・・」

「でもはないの!」

 強引に手を引いて歩き出す亞里亞ちゃん。こんな積極的な娘だっただろうかと考えて、頭を振った。そんなわけない。
 また、私は・・・迷惑を掛けている
 あの空では止める衛ちゃんに迷惑を掛けて、さっきは看護婦さんとお医者さんに迷惑を掛けて、今は亞里亞ちゃんに迷惑を掛けている。
 何時の間に、私はこんな迷惑な人間になってしまったのだろう。
 こんな事なら・・・・私なんていない方が良い。

「姉や・・・暗いことを考えたらダメなの」

 考えを読んだように言う亞里亞ちゃん。

「もしかして・・私、口に出して言ってた?」

「最初から言ってたの」

「重症ね・・・でも、本当のことだから」

「本当も、嘘もないの・・・」

「私の手は衛ちゃんの血で血塗れだよ・・・」

「それなら・・亞里亞も血塗れ・・・たくさん殺してきたの」

 握っていた手を離して、亞里亞ちゃんは両手を私の前で開いた。
 細くて、可愛らしい指は真っ白だった。血になんか染まっていない。
 私は自分の手を見下ろした。深く切った指に傷はまだじくじくと血を染み出させている。包帯に滲んだ血から目が離れない。
 そんな私の視線を遮るように、亞里亞ちゃんは強引に私の手を引いていった。
 亞里亞ちゃんの運転するジープで基地へ帰る。
 警護も顔パスに、そもそも亞里亞ちゃんの顔を見忘れる男などいないと断言できた。
 にっこり笑う亞里亞ちゃんに、赤くなって慌てて鉄兜を被りなおす警護の兵士、良く見ると大して歳も変わらないように思える。                                              
 兵士のニキビが赤くなった頬の中で浮いていた。

「お疲れさまなの」

「はっ!光栄であります」

「門を開けて欲しいです・・・」

「はっ!今すぐに!」

 見ていて飽きないな、と思った。
 やたら緊張した警護の兵士がカチンカチンになりながら門を開ける。ちょっと突けば今にもぽろっとどこかが崩れそうなくらいにガチガチだ。
 心臓の心拍数はきっととんでもないことになっているだろう。
 門を開ける警護の足どりがまるでコンパスのようにカクカクで、一昔前のポリゴンのゲームみたいで、少し面白かった。

「姉やが・・・笑ってる」

 振り返った亞里亞ちゃんは驚いた顔をして言った。
 確かにバックミラーの中で私は笑っている。
 薄く、小さく、あるのか無いのか分らないくらいの笑顔だけれども、確かに私は笑っていた。あの若い警護の兵士を見て笑っていたのだ。
 何故だろうか、と考える・・・多分、久しぶりに自分で操縦しない乗り物に乗った所為だろう。とても退屈だった。

「全く、人生は驚きに満ちているわね・・・」

 アレだけ酷い目にあっても、体は懲りもせずに刺激を求めて活動を続けている。
 思っている以上に体は健康なのだった。
 そっと、こめかみの傷に手を当てた。あと数センチずれていれば失明していた一撃だった。まだズキリを痛む。でも、少しすれば直るだろう。
 心も体も酷くダメージを受けていた。でも、もう体は立ち直りつつある。
 たぶん、形がある分だけ治りも早いのだろう。

「そうなのデス〜人の一生は驚きに満ちているデスよ。産道を潜り抜ける時に最初の驚きを味わって、脳とか心臓が止まる瞬間最後の驚きを発見して、天国に召されるのデス」

 ちょっと秘密めかした声。酷く似合わない。

「私は四葉ちゃんの方が驚きだと思うけど・・・いつからそこにいたの?」

「今さっきデスよ?検問で止まった時に飛び乗ったのデス!」

 いつの間にか、ジープの後席には四葉ちゃんがいた。
 今日はオフなのか、制服じゃなくて私服だった。パンキッシュなデザインのタイトなミニスカート。どこかのバンドのボーカルでも通用しそうな格好だ。

「よく警護の人に見つからなかったわね・・・」

「だいじょうぶデスよ〜四葉にかかればちょちょいのちょいデス!」

「ふ〜ん、そのわりには最初に基地で迷子になってたけど」

「咲耶姉チャマはいじわるデス!」

 抗議する四葉ちゃんの頭を撫でた。柔らかい、色素の薄い髪が指に絡んでくすぐったかった。

「ごめん、ごめん」

 お詫びに、丹念になでなでしてあげる。

「えへへ〜」

「なでなでなで〜」

 少し髪が乱れぎみになるくらいなでなでしてあげた。

「どう、暑くなってきた?」

 沖縄はまだまだ暑い。

「もー!姉チャマー!」

 ぽかぽか頭を叩く四葉ちゃん。からかいがいがある娘だと思う。
 四葉ちゃんを見るとついつい悪戯してみたくなる・・・・衛ちゃんと同じように。

「姉チャマ〜元気出すデス」

「ありがとう・・・」

 嬉しい、嬉しくないはずがない。少しだけ、枯れたはずの涙腺から涙が染み出した。
 そっと抱きよせた四葉ちゃんからは清潔なシャンプーの臭いがした。甘い睡魔に誘われる。柔らかい肩に手を回して、倒れ込んだ四葉ちゃんの体を支えた。
 子猫を抱いているのに近いかもしれない。

「うう、姉チャマ・・・ちょっと臭いデス〜」

「や、やっぱり・・・?」

 病院は空調が効いていたので大丈夫だと思っていたけれど、ここ数日お風呂に入っていないので、多少汗臭いかもしれない。
 そういえば、歯も磨いていない。
 口に手を当てて、吐いた息を鼻から戻す・・・やはり臭う。

「とりあえず、お風呂に入るの〜」

 ジープは重量感たっぷりに止まる。
 太陽が高くて、陽射しがきつい。
 見上げれば兵舎のクリーム色のちょっと汚れた壁、2階建てのプレハブが延々と続いている。屋根には洗濯物がはためいて、官給品のみんな同じ下着が風に揺られている。
 私は久しぶりに我が家へと帰ってきた。





 吹き上がりの悪いファントムのエンジンのように、兵舎のシャワーも湯の出が悪かった。もっとも、沖縄は相変わらず暑いので大して気にはならないけれど。
 壁にもたれかかって、冷水を浴び続ける。
 そのうちにだんだんと暖かくなってきて、冷えきった体が温まってきた。
 温水の滴る髪を掻き分けて、こめかみの傷に触れた。汚い包帯をとって、今は絆創膏に張り替えてある。
 傷の治りはいい、手の切り傷も1週間程度で問題なくなる。また直に飛べるようになるだろう。医者が言うにはこれだけで済んだのは奇跡らしい。
 その奇跡を得られなかった衛ちゃんは、今だ意識すら回復していない。

「不公平だよね・・・」

 誰もいないシャワールームで呟くと、タイルに声が反響した。酷く、孤独が実感される。
 だが、それでもさっきまでの絶望的な気分はもうどこにもない。
 胸には穴が開いてしまったかのように風は吹きぬけていくけれど、この世から消えてしまいたいと思うほどではなかった。
 ただ、ぼーっとシャワーを浴びて、手の皮がふやけるのをなんとはなしに見ていた。
 だるい体を叱咤して、四葉ちゃんが用意してくれたシャンプーとリンスに手を伸ばす。
驚いたことに国防軍の官給品じゃなくて、市販のシャンプーだった。民需生産が止まっている最近では高価な貴重品である。
 人情が身にしみる。手を合わせた後大切に使わせてもらった。
 ボディーソープも亞里亞ちゃんから借りたもの、これは驚くべきことに(フランス製!)らしい、こんな舶来品使っていいのだろうか・・・というか、もしかして亞里亞ちゃんは凄いお金持ちなんじゃないだろうか・・・

「どう見ても庶民派のアイテムじゃないわね・・・」

 メーカー名はないし、バーコードとかもない、少なくともコンビニで簡単に買える代物ではないと思う。
 とはいえ、他に選択肢もない。
 まあ、後で返せとは言わないだろうから・・・大丈夫、大丈夫。
 傷に気をつけながら、ボディソープの馴染ませたスポンジを体に当てる。

「百合の香りかな・・・亞里亞ちゃんの匂いがする」

 少し洗い流してしまうのがもったいない気がした。
 随分と貧乏臭い、そんなことに気が回るくらいに気持ちに余裕ができたということだろうか・・・
 思い切り強く蛇口を捻って、勢い良くシャワーに打たれる。
 体に付いた泡も、暗い思いも、何もかもかき消すように降り注ぐシャワーを浴びて、私はシャワールームを出た。
 大き目のバスタオルで体を拭いて、亞里亞ちゃん達が用意しておいてくれたフライトスーツに袖を通す。真新しいフライトスーツ。前のフライトスーツはどうしたのだろうか、あの血塗れのスーツを着るつもりはないけれど。
 新しいフライトスーツは軽くて、人の優しさに包まれているような気がした。用意してくれた二人のことを思うと少し涙が滲む。
 厚いので、上半分を腰に巻くことにした。洗いざらしのTシャツ、ステゴザウルスのプリントが入っている。かなりキツイ、これは衛ちゃんのだ。
 更衣室に備え付けの扇風機で胸元から風を送る。汗でシャツがべとついたけれど、直に扇風機の風で乾いた。
 体が軽い、腰を回すとバキバキ鳴った。
 不衛生にしていると、精神までマイナスの方向へいってしまうものだと実感する。これからはなるだけ清潔を保つようにしよう。

「さてと・・・」

 部屋を出るとき、半渇きの髪を押さえつけるように帽子を被った。
 黒地に金糸で部隊章とメビウスリングの刺繍がされている。お気に入りのベースボールキャップ。
 
「行こうか」

 私は勢い良く更衣室の扉を開けた。
 
「待ってたデス〜」

 廊下には二人が待っていた。
 二人が持っているコーヒー牛乳のビンは空っぽになっていた。随分と待たせてしまったらしい。

「どこへいくの?」

「こっちなの〜」

 二人に手を引かれるままについていく。
 繋いだ手の温もりは、熱い沖縄の熱気に紛れることなく、ちゃんと伝わってきた。
 ぐいぐい手を引いていく四葉ちゃんと亞里亞ちゃん、引かれていく私。遠くで誰かが私達を見て笑っていたけど、気にはならなかった。
 手を振り解こうとも思わない。
 もう少し、この温かな空気に甘えていたかった。許されていたいと思ってしまっていた。
 私達は長い道を歩いて、ようやく目当ての場所に辿りついた。






 格納庫、通風のないお蔭で熱気が篭っている。風が吹くたびに追い出された熱気が足元をじわりと弄りながら消えていく。
 ずらりと並んだ格納庫は平和な時代に作られた旧駐沖縄米軍用の耐爆格納庫だった。1000ポンド爆弾の直撃にも耐えられるけれど、中の熱気には耐え難いものがある。
 数日前まで、ここにはF4ファントムEJ改が鎮座していた。今はない。
 代わりに、イーグルが一機鎮座していた。
 ファントムに慣れた目で見ると、改めてF−15は巨大な戦闘機だと分る。こんな大きいものが空を飛ぶのはなかなか奇妙なことではないかと思ってしまう。

「これって・・もしかして」

「はい、姉チャマの新しい愛機デス!」

 元気良く、笑顔で言う四葉ちゃん。私がイーグルライダーになったことを純粋に喜んでくれているのだろうが、私は全く逆だった。
 拳を握った。怒りがこみ上げる。

「私のファントムは?」

「えーっと、スクラップ置き場に・・・」

「なんですって!?」

「ちょっと、姉チャマ!」

 気が付いたら走っていた。
 スクラップ置き場は滑走路の隅にある。
 ダッシュ、硬いコンクリートを蹴って、遠いスクラップ置き場まで走った。息が切れるのも気にせず、ペース配分なんてまるで考えずに、走って、走った。
 
「勝手なことしないでよ!」

 息が切れているのに悪態をついたから、ますます息が切れてしまった。
 私が病院で呆けている間に、あのファントムがゴミ捨て場に送られてしまっていた。なんという不覚だろう。ボケている場合じゃかった。
 今すぐに止めさせなければ。

「ちょっと!ストーップ!!」

 走り込んで、そのまま一言叫ぶと、完全に息が上がってしまった。
 二の句が告げられない。
 それでもファントムに群がっていた整備員達は手を動かすのを止めた。

「あれ?さくの字じゃねぇか?怪我してるわりには随分と元気だな」

 ファントムの操縦席から顔を上げたのは、整備長の平山雄山整備大尉である。
 既に60半ば過ぎていて、この基地では一番の年長者である。部下の整備員は当然としてパイロットの信頼も厚い。
 整備長はBIT(自己診断システム)を使わずに、エンジン音だけで故障箇所と探り当てる。旧軍の職人芸を今に伝える数少ない匠の一人だった。
 冗談のような話であるが、中央から出向して日が浅い空軍大佐が思わず先に敬礼してしまうくらいに貫禄に満ちている。
 そんな整備長が暢気に片手を上げて言った。

「元気なのは良いが、病み上がりなんだから体を労われよ」

「そんなに・・元気に・・見えます・・か?」

 こっちは息絶え絶えだった。
 大量に出血したせいか、ここのところ貧血気味でさえある。

「ああ・・・元気だよ」

 呆然として地面にへたり込んだ私を整備のみんな見ていた。
 苦労して微笑んで片手を上げて、挨拶する。
 
「確かに・・・元気デスよ」

 ようやく追いついた四葉ちゃんが、やっぱり息絶え絶えに言った。
 元気。
 この傷ついた体にはまだ格納庫から滑走路の端まで走る元気があるらしい。
 おまけに整備のみんなに愛想を振りまく余裕さえある。
 あまりのタフネスぶりに泣いてしまいそうだった。

「整備長・・・一体何をしているんですか?」

 ようやく息を整えて、私は言った。
 正面から、ファントムから部品を奪っていく整備長を睨みつけた。
 許せることと、許せないことが世の中にはあると誰かが言った。
 確かにそれはあると思う。苦しかった訓練生時代を一緒に過ごしてきたファントムを勝手にスクラップにするなんて、絶対に許せない。

「こいつはもう飛べないんだ・・・・聞き分けろ。さくの字」

「そんなことありません!基地までちゃんと飛べました!」

「奇跡的にな・・・もう寿命なんだよ」

「そんな・・・!」

 とても信じられない。
 確かに古ぼけているけれど、ファントムはちゃんと飛んでいたのだ。
 きっと、ちゃんと修理すれば飛べるはず。

「お願いします!」

「ダメだ!」

「どうしてですか!」

「それは俺のセリフだ。どうして拘る?イーグルの何が悪い。あれはいい飛行機だ。あっちのフランカーともタメを張れる。衛の仇だって、イーグルなら討てるかもしれん」

「でも・・・イーグルは単座戦闘機です。衛ちゃんが帰ってきたら、衛ちゃんはどこに乗ればいいんですか!?」

 ここで引き下がったら、本当に衛ちゃんはもう帰ってこれなくなるんじゃないかと本気で思った。
 ファントムがなくなったら、衛ちゃんが帰ってこれる場所がなくなってしまう。

「気持ちは分る・・・・だが、ダメだ。このファントムじゃ、飛び立った瞬間空中分解する。お前に恨まれたくないが、衛にも恨まれたくないんだ」

「そんな・・・」

 足元がふらついた。
 慌てて四葉ちゃんが支えてくれる。
 良く見れば、ファントムの機体はクラックだらけだった。キャノピは雲の巣のように割れていたし、右の主翼には隠しようのないくらいの大きなクレバスが延びていた。
 パイロンも金具が外れたのか、あらぬ方向に向いている。
 エンジンから漏れた真っ黒なオイルが雑草の緑を黒く汚していた。
生還してから一度もファントムをきちんと見ていないことに気がつく。帰ってきた時の記憶はない。どうやって帰ってきたのかも分らないくらいなのだ。
 重い、鉛のように重い沈黙が降りる。
 私は怖そる怖そる声を飛ばした。

「すいません・・身勝手なことを言いました。いかなる処分も覚悟します。平山整備大尉」

「怒っちゃいねぇよ。むしろ妬けちまったぐらいだ。パイロットにこれだけ愛された戦闘機はそうはねぇよ」

 こんこんとリズミカルに整備長はファントムの風防を叩いた。
 そして、思い出したように言う。

「どうしても・・・衛の居場所が欲しいんなら、イーグルを極めてみな」

「イーグルを極める・・ですか」

「そうさ・・・イーグル・オブ・イーグル、鷲の王者。そんな戦闘機が一機だけある。ただでさえ化け物みたいなイーグルのエンジンをさらに強化して、最新のアビオニクスをごってり積んだ怪物さ。地球上のあらゆる空で、どんな天候でも、どんな相手でも、どんな状況下でも、敵を空から追い出すこと。どこへでも飛んで行き、どんな天候でも、どんな相手でも、どんな状況下でも、どんなものでも破壊できること」

 一気に言い上げて、整備長は言葉切った。
 そして、一息。

「イーグルの王様・・・F−15E、ストライクイーグル」

「ストライクイーグル・・・」

 かみ締めるように含んだ言葉は特別な音色で私の耳に響いた。
 ストライクイーグル、ストライクイーグル。何度繰り返しても良い名前だった。良い名前は何度聞いても飽きない。

「たしか・・・あれは複座の戦闘爆撃機なの」

 歩いて来た亞里亞ちゃんが口を挟む。
 
「まあ、誰にでも飛ばせる戦闘機じゃない・・・あれは真のイーグルライダーだけが飛ばす資格がある。ファントムなんか目じゃないさ、もしもお前がまた衛と飛びたいんなら、ストライクイーグルを目指してみな」

「はい・・・」

 恥ずかしさに頬が赤くなるのが分った。
 みっともないと思う。壊れたファントムにしがみついて、一体自分は何をしようとしていたのだろうか。まさかこの壊れたファントムに衛ちゃんを乗せるつもりだったのだろうか。
 あまりの情けなさに少し笑えてしまった。

「ほれ、忘れ物だ」

 クリップの付いた写真を一枚、整備長は放った。
 すっかり忘れていた・・・お兄様の写真。
 写真の中のお兄様は何が嬉しかったのだろうか、笑っている。そっと胸に抱いた。無くしてしまったかと思っていた。
 
「家族か?」

「はい・・・お兄様です」

 お兄様の笑顔を見ると、ふっと胸が軽くなるのを感じた。
 なんで自暴自棄になっていたのだろうか・・・
 ショックだったことは分るけれど、衛ちゃんはまだ死んだわけでもない。
 まだ私は衛ちゃんには謝ってすらなかった。ごめんなさいも言っていないのに、私は一体何を右往左往していたのだろうか。
 情けなくて、穴があったら入りたい。ついでに500ポンド爆弾でも放り込んでもらえたら最高だと思う。
 恥ずかしくて、なんとなく気まずくて、いたたまれなくなった私を助けるように携帯電話の着信音。
 着メロはベートーベン交響曲第5番。静かな時に鳴るとかなりびっくりする。この着メロは衛ちゃんの悪戯だった。
 
「はい・・・もしもし」

 電話の向こうには誰がいるのだろうか・・・
 着信は見たこともない番号だった。とりあえず、携帯からじゃないみたいだけど。

「・・・さくねぇ?」

 とても聞き覚えのある声。
 だけれども、直に誰だったか思い出せなかった。
 石像みたいに固まって、たっぷり1分使って私は電子レンジで解凍された冷凍食品みたいにぐにゃぐにゃになって、そのまま座りこんだ。

「・・・・あの、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 涙で声が潰れないように注意しながら、私は尋ねた。

「なになに?さくねぇ」

「夢じゃないよね?」

「頬をつねってみたら?さくねぇ」

 笑って言う衛ちゃん。
 私は思わず空を見上げた。そこに、雲の上に神様の姿がないか探していた。
 ベートーベン、交響曲第5番。
 曲名は運命。
 運命は・・・命を運んでくると書いたっけ・・・
 そんなつまらない薀蓄を考えながら、私は今度こそ声を上げて泣いてしまった。






 夜明け、まだ夜の闇が天球を覆っているけれど、東の空は明らんでいた。
 黎明、夜明け前。払暁を期して空の誇り高きサムライ達は遥か彼方、佐世保で眠りこける赤衛艦隊に奇襲を掛けるべく、最後の点検に余念がなかった。
 沖縄、嘉手納基地。広大な面積を誇る元米軍基地では、その後を継いだ西日本軍国防空軍の総力を結集した攻撃隊が集結を終えていた。
 嘉手納基地に集結した戦爆連合は50機以上。
 その中に一機、米国から貸与(実質供与)されたF−15Aがいた。巨大な双尾翼にはメビウスリングが描かれている。遠くから見ればリボンが付いているように見えなくもない。
 後期生産型のC型に比べればA型はアビオニクスの面でいくから見劣りしたが、この際贅沢は言っていられなかった。
 生産拠点の全てを失った西日本軍は世界中から新旧問わず、戦闘機をかき集めていた。既に開戦から1年以上が過ぎて、ようやく開戦直後に発注した新規生産の戦闘機が戦力化され始めていたが、それが本格的に参戦するにはもう少し時間が必要だった。
 だが、それを敵は待ってくれるはずもない。
 遂に、これまでの妨害作戦も虚しく赤衛艦隊はその膨大な戦力を洋上に現そうとしていた。なんとしても赤衛艦隊が洋上に出るまでに壊滅させなければいけない。
 負けられない一戦だった。
 そんな夜明け前の、深い紺碧の空に小鳥のさえずりのような声が響く。
 注釈を加えねばならないが、ようなということは似ているという意味である。似て非なるものはどこまでいっても異なるものでしかない。
 生まれたてとはいえ、誇り高きイーグルライダーには小鳥の油断など一分も無い。

「エレベーター、チェック。ラダー、チェック。テールダウン、チェック。ライト&アンテナ、チェック・・・・・」

 飛行前のプリフライトチェック、今までなら二人でやってきたのを一人でやらなければいけない。機体の大きいイーグルのチェックは大変だった。
 それが終わるとステップを駆け上がり、コックピットに収まる。
 BITを走らせる、オールグリーン。ブラックボックス化されたLRUは全て正常。
 安心してハーネスをパラシュートのハーネスに繋ぐ。耐Gスーツのホースを圧縮空気口に接続した。
 シートベルトで完全にシートへ体を固定する。きつく、きつく、きつく。イーグルと一体となるために。ヘルメットを被り、バイザーを下ろす。
 油圧でキャノピーが降りる。しっかりと密閉された。気密を確認。
 JFS(ジェット・フェル・スターター)をオン、JFSは航空燃料を燃やしてメインエンジンを動かすための電力を発生させる為の補助エンジンである。JFSは正常に動作して機体に必要な量の電力を供給する。
 スロットルの右フィンガーリフトを持ち上げる。JFSとエンジンを接続、タービンの回転数が上がる。
 エンジン回転計に目を落しつつ、油圧、電圧を盗み見る。タービン回転数が18%を超えた。スロットルをアイドルへ、右エンジン点火。同じことを繰り返す。
 左右のメインエンジンは貪欲に空気を吸い込んで膨大な推力を発生させる。
 ミサイルシーカーの点検、グラウンド・セイフティーピンが抜かれる。安全装置解除。

「コントロールよりメビウス1へ。さくねぇ、調子はどう?」

 管制塔からの通信。朝から車椅子で衛ちゃんが見送りに来てくれていた。
 衛ちゃんは傷の治りも早く、今はリハビリの毎日である。

「上から2番目くらいかな・・・」

「上から2番目?」

「そう、優秀なRIOがいないから。単座はダメね」

「も〜、お世辞を言ってもダメだよ」

 笑いながら僅かにスロットルを押し込んでタキシング、滑走路の端へ着ける。無線周波数を地上管制から飛行管制に切り替える。
 ラスト・チャンス・チェック。スロットルを開く、急激に回転数が高まる、轟音。エンジン回転計、油圧、電圧、FTIT、全て問題なし。
 
「そろそろ、行くわ。リハビリ、がんばってね」

「うん、さくねぇもがんばって・・・イーグルの王様になってね。ぼくもがんばるから」

「うん、約束する。席は必ず用意しておくから」

 管制塔、衛ちゃんが手を振っていた。
 すっかり傷の癒えた手で振り返す。
 二人は同時に、

「「グッド・ラック!」」

 ブレーキを放した。
 機体が加速する。アフターバーナー、オン。
 どかん、と来た。機体は60度の鋭角で上昇。振り返る、嘉手納基地はもう小さくなりつつあった。
 加速しながら、上昇。
 天気は良い。上はいつも晴れている。
 高度3000メートル、東の空を見た。夜明けの光で雲が赤く染まっている。御来光、グロリアス・ドーン。
 若きイーグルが朝日の空に飛び立った。




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