ミッション2 奇襲、熊本空港
「おまっとうさん」
「ありがとう」
受け取ったトレーの重さにちょっとだけたじろぐ。
山盛りにされたご飯と大皿一杯にされたゴーヤーチャンプル、それに卵スープ。
どう考えても通常のA定食の3倍の分量がある。
赤いトレーに乗っているのがミソだと思う。
「あんたは線が細いから、たくさん食べな」
戦争が始まる前まで定食屋さんを経営していた女将さんは有無を言わせない口調で言う。
日本人ばなれした長身で、ずいっと身を乗り出して睨みつけられるとかなり怖い。
基地司令でも女将さんには絶対に逆らわないというが、それは正しいと思う。絶対に女将さんは元ヤンだわ。それどころか現役かもしれない。
目元の小皺がちょっと目立つけれど綺麗な肌をした女将さんの顔にちょっとだけ影が落ちる。
「あんた最近全然食べてないじゃないか、こんなにクソ暑いっていうのに、食べないと直に倒れちまうよ」
「はい・・・」
どうやら見抜かれていたらしい。
ここの所、あまり食べていない。
「さあ、さっさと食べた、食べた。早くしないと冷めちまうよ!」
巨大お玉で背中を突かれて、私は気の進まないまま席について箸を取る。
むわっと立ち上る熱気と臭いに思わず顔を背けそうになった。そういえば、しくしくとお腹が痛む。体が食べることを拒否していた。
本当なら、3食全部ヨーグルトかゼリーにしておきたいけれど、そんな気の利いたものはこの仮設基地にはなかった。
「さくねぇ、眉間に皺がよってるよ」
場所取りを頼んでおいた衛ちゃんこそ、眉を八の字にして皺を寄せている。
「うん、分ってる」
自分でも、このままじゃ良くないって分っている。
「食べようよ、おいしいよ」
ぱくぱくと、そんな擬音さえ聞こえきそうなペースで衛ちゃんは箸を口へ忙しく運んでいる。見ていて気持ちがよくなってくる程の食べっぷり、私にはちょっと真似できそうにない。
夏と沖縄。この組み合わせは地獄だと思う。
何で沖縄はこんなに無意味に暑いのかしら?陽炎の立ち昇る滑走路を見て何度その問いを繰り返したか、見当もつかない。
お兄様、咲耶は挫けてしまいそうです。
「ほら、ミニ沖縄そばだよ。あーん」
蓮華には面とメンマが綺麗にのってなみなみとスープで満たされている。
衛ちゃんは最高のRIOだと思った。
戦闘だけじゃなくて、食事のサポートまでしてくれるRIOはそうはいないだろう。
「あーん」
好意に甘えて、食べさせてもらう。
周りで羨ましそうに見ている野郎共の視線を今は忘れることにした。
適当に冷ましてあったラーメンはするりと喉の奥へ入っていく、沖縄そば独特の豚肉と鰹をベースにした癖のあるスープは暑さに負けた味覚でも感じ取れた。
次の刺激を求めて、少しだけ食欲が湧いてくる。
「ありがとう、もう大丈夫よ」
「うん・・・ほんとに?」
「ほんとよ、食べないと午後からのフライトが辛いからね」
ゴーヤーチャンプルをご飯にまぶして食べる。
野菜をたっぷり使ったゴーヤーチャンプルは暑さで弱った体がぎりぎり妥協できる貴重な料理だった。
といっても、二口目にはもうほとんど味なんてしない。
まるで生暖かい砂を食べているような、胃の奥からせり上がるものを堪えて無理やり口に押し込んだ。喉元を滑りおちていく料理の温かみが吐き気を倍加させる。
それでも相棒の衛ちゃんにこれ以上心配をかけたくない。なんとか柔らかな表情を作るように頑張ってみる。
「ホントに、大丈夫?・・・さくねぇ」
「心配性なんだから、衛ちゃんは」
ぴん、と広くて可愛いおでこを弾く。
「大丈夫!私は平気よ。今までだって暑くてもちゃんとやってこれたでしょ?」
「それは、そうだけど・・・」
まだ何か納得のいかないことがあるのか、衛ちゃんはずっと眉を寄せていた。
それを見ると、心配されて喜んでいる自分を見つける。我ながら天邪鬼なことよね。
衛ちゃんはちょっとここのところ心配過多なんじゃないかな・・・私は衛ちゃんの方こそ暑さにやられているんじゃないかと思うことがある。
どちらかと言うと、衛ちゃんは心配されるタイプだし、今まで心配してきたのはずっと私の方だった。
ああ見えても衛ちゃん、けっこう繊細なのよね。
「じゃあ、整備チームに呼ばれているから・・・」
そう言って、衛ちゃんは沖縄そばを一飲みにすると、食堂から出ていった。
助かる。これ以上胃にゴーヤーチャンプルを押し込んだら、最悪作戦中にエチケット袋に頼らなくちゃいけなくなる。
今でさえ、衛ちゃんや飛行隊のメンバーが何かと心配そうな目で見てくるというのに、そんなことになったら飛行禁止を申し付けられかねない。
それに、ただでさえゴム臭い酸素マスクに酸っぱい臭いが染み付いてしまったら、悲惨過ぎる。
とりあえず、卵スープで後味を消しておこう。
「よう、お嬢!」
ばしん、と背中を叩かれた。
「!?」
おもいっきりむせ返る。鼻の奥が痛い。逆流で鼻がキーンとする。
幸いにも卵スープの噴射を受ける向かいの席には誰も座っていなかった。衛ちゃんは少し早くキル・ゾーンから逃れていたのだ。
「ぎゃあ、汚ねえ!」
大仰に叫ぶ声は野太い中年の声、それはどこか聞き覚えのある声だった。
誰かしら?
振り向いた先にいたのは
「教官!?」
「よう、お嬢。元気だったか?」
暢気に手を上げて挨拶するのは私の教官だった野本少佐だった。
どうしてこんなところに教官がいるのだろうか?と思う前に懐かしさが込上げてくる。
訓練生には“鬼教官”と恐れられて、何度泣かされたか分らないけれど、すごく懐かしい。卒業して別れてから、まだ1ヶ月も経っていないというのに。
「はい、おかげさまで元気にやってます」
「それなら良いけどよ」
訓練生時代のようにぼりぼりとお腹を掻きながら教官は言う。
耐Gの為に鍛えた太い首と丸太みたいに太い腕、そしてアンバランスなぐらいに出たお腹。訓練生の同期はみんな教官のことを基地の外では熊と呼んでいた。
コールサインもビッグ・ベア。
訓練は厳しいけれど、何度か家で夕飯をご馳走になったり、飲み会に連れていってもらっていたりもする。
思い出すことは楽しいことばかりで、どれも良い思い出になっていた。
「最近ぶいぶい言わせてるみたいじゃないか。俺のスコアを追いぬいたら承知しないぞ」
「ちょっと、痛いです」
汗臭いけど、ヘッドロックをかけられてグリグリされるのも久しぶりだと、ちょっとだけ新鮮よね?
「まあ、無事でないよりだ。死んだらどうにもならん」
「はぁ、そうですけど」
それは教官の口癖、何度も何度も聞かされている。
それにしても、一体何故こんなところに教官はいるのかしら、もしや現役復帰したのだろうか?
だとしたら、頼もしいけど、ちょっとだけ恥ずかしい。
あまり上達していないところを見られたら、顔から火が出てしまう。
「なぁ、ちょっとそこらを歩かんか?」
「はい?」
私が疑問の声を飛ばしたときにはもう教官は背を向けて歩き出していた。
ついてこいってことなんだろうけど、もう直ブリーフィングなのよね。
「ぼさっとするな!」
「は、はい!」
思わず敬礼・・・これじゃ訓練生と同じじゃない。
ニヤニヤと笑う野郎共の顔に卵スープをかけてやりたくなる。
敬礼にはちょっとだけ辛い思い出があった。
初日の敬礼訓練で何百回もやり直しさせられた記憶がフラッシュバックされる。つらい訓練はたくさんあったけれど、あれが一番辛かったと思う。次の日には腕が上がらなくて箸も使えないくらいになちゃったし。
「一体なんだろう・・・」
教官はもう涼しい食堂を出て真夏の日が照りつける日向にあった。
私は教官の背中を追いかける。
太陽の白光が目を焼いた。
「さくねぇ!作戦空域に入ったよ!」
はっ、と私は意識を取り戻した。
操縦桿を少しだけ引く。
機体は高度を取り戻して、急激な操作で生まれた乱流に震える。
いけない、少しぼーっとしていたらしい。
「スカイクローバーよりWJAF全機へ、爆撃機はぜ〜んぶお昼寝中デス!今がチャンスデス、チェキチェキチェキデス!」
無線の向こうから届くAWACSの四葉ちゃんのセリフに少しだけ緊張がほぐれる。
この独特のセリフには人気があって、基地には四葉ちゃんとの交信ログをテープに保存している熱狂的なフリークがいるくらいなのだ。
そういう宗教っぽいのは理解できないけれど。
「オーケー、じゃあ軽くチェキしちゃおうかしら」
操縦桿のグリップを握り返す。
反応は遅く、重い感じがした。
それもそのはず、機体にはミサイルの代わりにMk−82、500ポンド爆弾が8発吊り下げてある。重量270キロと軽量の爆弾であるけれど、被害直径は300メートルもある。地上に駐機されている爆撃機を破壊するには十分な威力があった。
狙いは東日本が接収した熊本空港に集結中の大型爆撃機の群。
これまで防戦一本槍だった西日本軍は久しぶりの攻勢に出ていた。今だ戦力再建は進んでいない西日本軍にとっては乾坤一擲の大博打である。
無論のことだが、自棄になったわけではない。博打には博打なりの論理がある。
戦力の再建が進まず、戦力に乏しい今の西日本軍に爆撃を止めるのは不可能。一度爆撃機が空中に上がったら、戦闘機の分厚い護衛のまえに手も足も出ない。
だが、現地で活動しているレジスタンスのお蔭で戦闘機隊の進出が行われていないことが分っていた。爆撃機だけが無防備にも熊本空港にずらりと並んでいるのだ。
本来ならば同時に進出すべきなのだろうが、何らかのトラブルで戦闘機の進出が遅れているらしい。
まさに千載一遇のチャンス。緒戦の勝利に酔った東日本軍のミスと言える。さらに警戒態勢も杜撰であり、破壊工作で一時的に相手の警戒網を無効化できなくも無い。
ここに至っては、もはや迷う要素はなかった。
座して死を待つなら、打って出るべし。
空中で撃破できない敵機を飛び立つ前に破壊しようというのがこの作戦の主旨である。
「メビウス1、変電所を通過デス」
振り返ると変電所からは黒煙が立ち上っていた。
他の機が爆撃したらしい、これで東日本軍の基地は停電で機能を停止するだろう。本当の軍事基地ならともかく、民間空港を接収した仮設基地では予備電源などあるはずもない。
「さくねぇ、高圧電線に気をつけて」
「分ってるわ」
もう3時間以上、神経を焦がすような低空飛行を続けている。いい加減、そろそろ限界に近い。
レーダーの警戒を潜り抜けるためとはいえ、ほんの一秒操縦桿を傾けるだけで機体は地上と熱いキスを交わすことになる。
一瞬ですれ違い、去っていく景色はどれだけ機体が高速で飛行しているかを教えてくれた。
不意に、地上に激突して木っ端微塵に吹き飛んだ仲間の最後がフラッシュバックされる。
「正直、心臓に悪いわね」
「もうちょっとだよ」
そのちょっとはもう目の前に来ていた。
FCSを操作して、爆撃照準器を作動させる。
HUDには着弾地点を示すマーカーが現れ、急速に接近しつつある熊本空港にそれを合わせた。狙いは空港ターミナルとコントロールタワー。
東日本軍に接収された熊本空港にいるのは軍人だけだから、遠慮はいらない。
ラダーペダルをそろそろと踏み込んで、機体を滑らせて照準を微調整する。
「投下!」
まずは4発、500ポンド爆弾が機体を離れる。
重量物を捨てて身軽になった機体が浮き上がりそうになるが、押さえ込む。速度計もじりじりと上がっていく。
ラダーの操作で機体を左右に振りながら直進、滑走路を横切って熊本空港を横断する。
機体が滑走路を横切ったところで、爆音と衝撃波が微かに機体を揺らした。バックミラーにはオレンジ色の炎と煙が写っていた。
「命中したよっ!」
「いいぞ!メビウス1」
仲間の言葉が嬉しくも、恥ずかしくもある。
思わずにやけてしまうが、ぞわりと背中を撫でる悪寒に操縦桿を反射的に倒していた。急旋回の大Gで息が詰まる。
視界の端を曳航弾の束が通り抜けていった。
「AAAっ!」
射線を外すために強引に機体を旋回させる。
後方警戒装置が喧しい電子音で騒ぎ立て、焦燥を煽った。思わずスイッチを切ってしまいたい衝動に駆られる。
操縦桿を引いて、機体をロールさせつつ上昇。対空機銃の射程外へ逃れた。
嫌な汗でベットリと下着を濡らして気持ち悪い。
「クラウド3が殺れた!」
「SAMだ。回避しろ!」
「空襲を受けている。これは演習ではない。繰り返す、これは演習ではない!」
無線に悲鳴と怒号が交錯する。敵の通信まで混じっていた。
東日本軍の対空砲で何機か喰われたらしい。
味方を墜した対空砲の発砲炎を見つける。すぐさま照準を合わせて爆弾を投下、虱潰しにしていく。
落ち着いて見回せば、対空砲の数はそれほど多くないことが分った。
射弾を外しながら一基、一基確実に潰していく。
「今のが最後の爆弾だよ」
機体を爆弾が離れると同時に衛ちゃんが残弾を知らせてくれる。
視界の片隅でSAMが一基吹き飛ぶのも見ながら、高度を取った。撃ち漏らしが無いか確かめるために。
とはいえ、熊本空港は黒煙に包まれていて視界が悪い。
真っ先に破壊された燃料タンクが火柱を吹き上げて、黒煙で空を汚している。爆弾の直撃を受けた爆撃機はほとんど原型を留めていないし、管制塔は倒れ、ターミナルビルには大穴が幾つも空いている。
飛び立つ前に撃破されたMig系戦闘機の残骸の中で、破壊された大型旅客機の巨大な尾翼だけが妙に浮いていた。
「まずいわね、まだ爆撃機が残っている」
黒煙に隠されて見えにくいけど、3機爆撃機が駐機場に残っていた。
綺麗に3機、Tu−95ベアが並んでいる。一発でも爆弾があればあの真ん中に放り込んで終わりなのだけれど。
爆弾はもう使い切ってしまっている。
「まだ爆弾が残っている機はない?」
「すっからかんだ」
「おけら」
「すってんてん」
次々によろしくない答えが返ってくる。
「しょうがないわね」
機体を旋回させて、爆撃機とクロスするラインへ機体を乗せた。
速度を落として、HUDのマーカーに爆撃機を合わせる。
F4ファントムEJ改に装備された20ミリM61A1バルカン砲の電動モーターが主の命を受けて静かに回転数を上げた。銃身の回転が始まる。
装填された20ミリ102口径機関砲弾は激発の瞬間を待ちわびていた。
爆撃機は加速度的にその姿を巨大なものにしていく。周りには襲撃で右往左往する敵兵士がアリの様に群れている。
なんとか、この爆撃機だけでも救おうとしているのかもしれない。
既に機銃の射程内、トリガーを引けばいつでも弾が出る。
初速が秒速1000メートルを超えるM61バルカンの射撃は人体など紙吹雪のように吹き飛ばしてしまう。
音速の3倍で飛ぶ機関砲弾の衝撃波だけでも十分な破壊力を持っていた。
トリガーを引けば、確実にダース単位で死人が出るだろう。
地上の兵士が私を見上げていた。
そして、私は―――――――
「いい天気だな」
「はい、ちょっと暑すぎですけど」
ちょっとどころではなくて、凄まじく暑い。
これだけ暑いと海で泳ぐのは逆に危険だった。一日で全身火傷になってしまう。
だから仮設基地の前には青い海と白い砂浜が広がっていたけれど、泳ぐ者は一人もいなかった。
まあ、着陸失敗でベイルアウトしたパイロットが3人くらい泳いだことがあるけれど。
「少し痩せたな?」
背中を向けたまま、野本教官は言った。
「これだけ暑いと痩せます」
「暑さは関係ないだろ。グアムの訓練校じゃ飲んで食って、少し太ったはずだろ」
「う・・・」
どうして知ってるのかな・・・私の体重。
グアムの訓練校で最後に体重計に乗ったときは目の前が暗くなる思いをしたけど。
「昨日、衛の奴から電話があった。お嬢がやばそうだから励ましてほしいってな」
「衛ちゃんが、ですか?」
「そうだよ。俺もお前のことが心配だった。衛はどん臭いがタフだから上手くやっていけるだろうけど、お前はかなりナイーブなところがあるからな」
「そんな・・・私、大丈夫です!」
教官が何を言っているのか、よく分らなかった。
繊細なのは衛ちゃんの方だし、私は何もおかしくない。
心配されるようなことは何もない。
「実際、来て見てよく分ったよ。やはりお前をパイロットにしたのは間違いだった。最初の敬礼訓練で弾いておくべきだった」
「何を言っているのか、分りません!」
ショックだった。
教官にそんなことを言われたら、私の立場はどうなってしまうのだろう。
がらがらと何かが崩れていく音がする。まるで断崖に立っているような気分だった。風でも吹けば、私は何の抵抗もなく落ちてしまうだろう。
太陽は燦々と陽光を送っているのに、目の前は真っ暗で何も見えない。
「このままじゃ、お前が潰れちまう。俺は信用出来ないのか?歳の近い衛には無理だろうけどよ、俺になら素直に話せないか?」
「話すようなことは・・・ありません」
私の声は自分でもびっくりするぐらいに、震えていた。
もう、立っていられないくらいに膝が震えている。
「あれ?」
悲しくもないのに、涙がぽろぽろと止まらない。
よろけた体を教官が太い腕で支えてくれた。不思議なくらいに体に力が入らない。
そのまま、木陰まで肩を貸してもらってしまった。
「教官・・・」
「安心しろ、周りには誰もいない。誰にも言わねえから全部ゲロしな」
懐からシガレットケースを取り出しながら、教官は言った。
教官はすごく落ち着いていて、なんでも話せてしまえるような気がした。もう喉元までせり上がってきてたこと全部、聞いて欲しかった。
視界が歪む。
気付いたら、私は泣いて洗いざらい全部ぶちまけていた。
すごくみっともないと思ったけれど、止まりそうになかった。
「すると・・・相手を殺したことを後悔しているのか?」
その一言はナイフのように鋭く、私の心を貫いた。
「うん・・どうしたら・・・いいですか・・・私、お兄様に嫌われる・・・」
涙が止まらなくて声帯が壊れてしまったのか上手く喋ることが出来ない。
子供のころみたいに、涙は拭っても拭っても次から次へと溢れてきた。
「お嬢は自分のしたことが間違っていると思うか?」
「・・・分りません」
「俺にも分らん」
返ってきた答えは意外なものだった。
「だが、お嬢が生きていれば、お嬢の兄貴は喜ぶだろう。戦争にいった家族が生きて帰れば、そいつがどれだけ敵兵をぶっ殺したかなんて関係なく喜ぶもんさ」
「本当に・・そうですか」
「ああ、誓ってやるよ。だから今は目の前の敵を殺すことに専念しろ。何か心が動いても忘れろ。生きていれば、また考えることも出来る。死んじまったらどうにもならん」
教官は落ちていた珊瑚を掴んで、放り投げた。
白い珊瑚は漣に波紋を落として海へ消える。
見上げた横顔には深い疲労と孤独が浮かんでいたように思う。親しみのある教官の横顔が酷く遠いところに感じられた。
空気が甘く、優しい。
感じるのは細波と時々頬を撫でる風だけ。
私はお腹の中の赤ちゃんに戻ったみたいに手足を丸めて小さく閉じこもっていた。
触れられたくない、放っておいてほしい。
もう少しだけ、剥きだしになった私のことを忘れていてほしかった。
「ブリーフィングの時間はいいのか?」
「は、はい!?」
時計を見る。
卒業記念に配られた10Gでも壊れない耐G航空時計の長針はあってはならないところにあって、真夏の太陽を冷え冷えとしたものへ変えてくれた。
「ち、遅刻です!」
「馬鹿!言っている暇があったら走れ!」
ばん、と教官に背中を叩かれ私は走りだした。
涙や鼻水を拭う暇さえない。
きっと目はウサギさんのように真っ赤だろう。
どうしようか、どうしようもない。
考えても直には真っ赤な目は治らないし、目薬でもさしたことにしておこう。
ああ、それにしても泣いた所為か、お腹が空いた。作戦が終わったら購買へ行こうと思う。それに夕食はなんだろうか?豚カツが何となく食べたい。
明日のお昼には衛ちゃんの食べていた沖縄そばを食べようと思う。あれは美味しかった。それとも中途半端に済ませてしまったゴーヤーチャンプルを食べようか。
明日をも知れないというのに、明日何を食べようかなんて考えている。
とても不思議な気分だった。
妙に体が軽く、熱さも気にならない。
まるで背中に羽が生えたように、このまま何処までも飛んでいけるような、そんな気がした。
「任務完了。RTB(帰還)」
「おつかれさまデス!」
振り返ると燃える熊本空港はもう小さく、豆粒のようになっていた。
そこらじゅうから東日本軍の迎撃機が上がっているらしいが、電子戦装備に関しては西側の技術が勝っているお蔭でなんとか離脱できそうな様子である。
今迎撃につかまるとかなり辛いことになる。
何しろミサイルは自衛用に2発、機関砲の残弾も少ない。
それでも、海へ出るとほっと一息つくことができた。
「終わったよー」
「まだ始まったばかりよ。それにしても、お腹が空いたわ」
「もう空いたの?」
「そうよ、悪い?」
なんだか妙に嬉しそうな衛ちゃんの顔が何故か憎たらしい。
「ううん、いいことだと思うよ」
コロコロと笑う衛ちゃんに精神注入棒、ハリセンで叩く。
すぱん、といい音がした。
「痛いよぉ」
「痛いのに笑ってるの?」
「うん」
叩かれているのに笑う衛ちゃん。
憎たらしいけれど、不思議と悪い気はしない。
「ニヤニヤしないの」
「分ったよ、さくねぇ」
頭を庇いながらいう衛ちゃん。
振り上げたハリセンを鞘の中へ戻す。
ニコニコと笑顔過多の衛ちゃん、ちょっと壊れちゃったのかも。
全然反省してないみたいだし、これは帰ったら夕飯を奢らせなければ気がすまないわね。あぁ、でも本当に、私はどうしてしまったのだろうか。
・・・私は・・・本当は
「・・・ありがとう・・・」
「ん?何か言った?」
相変わらず笑ったままの衛ちゃん。
それを見ていると何か、とても腹が立ってきた。一杯食わされたというか、とても悔しい。
とりあえず、ハリセンで叩く。とても綺麗な音がして少しだけ溜飲が下がった。
でも、まだまだ足りない。本当にもう!とっても恥ずかしかったんだから!ハリセンくらいじゃ誤魔化されないからね。
日記 2000年9月5日
ふう〜今日も一日疲れたわ。
何か方々に迷惑かけて、いろいろ弱みを握られてしまったような。ほんとについてない日だと思う。
いろいろ影で裏工作してくれた衛ちゃんにはしっかり復讐を、やたら高い豚カツ定食を奢らせてやったからいいけれど、教官はどうしようか・・・グアムに帰っちゃったし。ありがとうも言う暇がなかった。情けないかぎりだと思う。なんて迂闊だったのだろうか。今度会ったらきちんとありがとうを言おうと心に誓う。
今日は対地攻撃だけで撃墜はなかったけれど、爆撃機6機とAAAやSAMを随分撃破したらしい。
この攻撃で「東日本は空爆を諦めマシタ!」と四葉ちゃんは教えてくれた。上層部は何か色々考えているらしく、いよいよ反撃が始まるということだろうか。
どっちにしても、お兄様への道はまだまだ遠いみたいね・・・
追記
食堂の豚カツ定食は2500円もする。材料にこだわりすぎだと思う。
さらに追記
豚カツ定食を奢らされた衛ちゃんは「明日からふりかけご飯だよ・・・」と泣いた。自業自得よ。でも・・・オカズくらいわけてあげるわよ。
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