プロローグ


 それは、むかし、むかしの古い思い出。
 色が滲んで潰れてしまうくらいの古い記憶。
 古ぼけた猫のヌイグルミと一枚の色あせた写真だけが、その時が確かにあったことを教えてくれるだけで、もう私はほとんど思い出せない。
 それでも、写真の中で笑っている少年と幼かった私は確かに10年前の夏に出会って、そして分かれたはずなの。
 顔も忘れてしまう程の年月が経っても、あの日伸ばされた手が大人達によって強引に引き裂かれた時の痛みは忘れない。
 例え、心臓を抉りだされても、あんなに心は痛まないだろう。
 例え、眼球を抉られても、あんなにこの世に絶望したりはしないだろう。
 例え、手足が千切れても、あの人の傍にいたかった。
 そう、あれは幼い子供の勘違いや背伸びなんかじゃない。私はあの人を、お兄様に恋をしていたと今でも躊躇なく断言できる。
 あの夏の日が来るまで、私はずっとこのままお兄様と共に幸せな毎日を送り、そしてやがて何時の日か結ばれると確信していた。
 それは熟した林檎がやがて地に落ちることと同じくらいに自明のことで、私はお兄様と引き裂かれる日が来るなど考えもしなった。あのまま、毎日幸せな日が続くとずっと、愚かなくらいに一途に信じていた。
 だけれども、私とお兄様は引き裂かれた。
 あれは熱い、日差しのきつい夏の日のこと。

「さくや!!」

 と、警官に取り押さえながらも私の名前を叫ぶお兄様と、ただ泣くことしか出来なかった私。
 セミの鳴き声が五月蝿くて、木陰の影の色が酷く暗かったと覚えている。私の名前を叫ぶお兄様は名前すら思いだせないというのに、そんなツマラナイことは何故かよく覚えている。
 あの時、私は酷く混乱していたのだろうと思いたい。でなければ、私は何も出来なかった私が憎くて、悔しくて、とても生きていけないと思う。
 私の名前を叫ぶお兄様の声はしばらく鼓膜に残って、何気なく道を歩いていると、突然思い出されたお兄様の声に思わず振り向くことさえあった。
 その日以来、私達兄弟が二度と会うことはなかった。
 引越しなんて甘いものじゃない。
 お兄様は東日本人民民主主義共和国へ、そして私は西日本へ完全に分断されてしまったのだ。
 第二次世界大戦における本土決戦の果てに米ソ、東西の分割占領の憂き目にあった日本は冷戦の激化に従って、それまで細々と続けられていた国境交流まで完全にシャットアウトされてしまったのだ。
 もちろん、幼かった当時の私にそんな難しい国家対立なんて分るわけもない。
 ただお兄様と引き裂かれたことが悲しくて、会いたくて、いつも検問所のフェンスに座り込んで別の国になってしまった日本を見つめていた。
 お兄様が会いに来てくれるのをずっと待っていた。
 私の周りには同じような人が沢山いて、時々検問所の向こうに姿を見せる向こう側に引き裂かれた家族がフェンス越しに泣きながら話をしているのを何度も見た。
 それを見た私は、どうしてお兄様は会いに来てくれないのだろうか、と悲しくなっていつも泣いた。
 でも、それも少しの間だけで、それから直に検問所はなくなって、延々と続く鉄条網と地雷原で編まれた鉄のカーテンが完全にお兄様と私を引き裂いた。
 私の家も“ひぶそうちたい”に入っているので立ち退きをさせられ、父の仕事の関係もあって私は家族と一緒に神戸へと移り住み、もはや鉄のカーテンの向こうへ引き裂かれた兄と連絡を取る手段は全て失われたしまった。
 時折地下トンネルで東から脱出した人々の話は幼かった私を絶望させるには十分なくらいに悲惨で、むごたらしいことが鉄のカーテンの向こうで起きていることを私は成長するに連れて理解していくことになる。
 そんなこの世の地獄みたいなところにお兄様がいることは私の心を痛めつけ、粛清や暗殺といった言葉が新聞やテレビに出るたびに私は言い知れない恐怖に震えた。
 お父様もお母様も私がお兄様を慕っていたことを知っていたと思う。それを知っていて、私達を引き裂いたというのならぜったいに許せないが、聞き出すまえに故人となってしまったので今では永久の謎である。
 時が経てば思いは薄れ、いずれ忘れてしまうだろうと考えていたのだろうか?
 だとしたら甘いと言うしかない。
 私のお兄様への思いは熱く熟していくことはあっても、決して消えたり冷めたりすることは無かった。
 私とお兄様を結ぶのは一枚の写真と誕生日のプレゼントにくれた猫のヌイグルミ。
 それだけを頼りに、何時の日かお兄様と再会することを願って十年。
 私の願いは、あの夏の日からちょうど10年後である8月15日、酷く乱暴な手段で叶うことになる。
 世紀末最後の終戦記念日、そして東日本で言う解放記念日。
 毎年のようにテレビで東西の政治家が訳の分らないお題目を垂れ流し、私はお兄様と引き裂かれたことを思い出して胸が痛む一日。
 いつもなら誰もが無視して通りすぎるような東日本の書記長の演説は、その日だけはきっと視聴率が90パーセントを超えていたのではないだろうか。
 意味の分らない、日本語の勉強を一からやり直したほうがいいのではないかと思うような演説が延々と続き、やはり訳の分らないまま終わった。
 ちょうど、それを街頭で見ていた私は意味が分らないので近くで頭を抱えて座りこんでいるサラリーマンに要約を頼んだ。
 頭を抱えているということは、あまり良い内容でないことくらいは直に分ったけれど。

「戦争だ・・・」

 私はサラリーマンのいうことが理解出来なかった。
 どうして同じ日本人同士で殺し合いをしなければいけないのだろうか?ましてや向こうにはお兄様が住んでいるのに。
 そんな私を放ったまま、現実は加速度的に進んでいった。
 キューバ危機でキューバ占領と引き換えに焦土となってしまったアメリカを押さえて世界一の超大国になったソビエト連邦の支援を受けた東日本は巨大レールーガンで西日本の軍隊を次々に吹き飛ばし、関東の国境線からあっと言う間に西日本の首都大阪を、私の住む神戸まで侵攻してきた。
 神戸の空を沢山の戦闘機が乱舞して、白い飛行機雲が空を割いていく。
 遠雷、そして飛行機雲螺旋、その終わりには炎と黒煙。
 美しい空の戦い。誰にも犯されない、ピュアで綺麗な飛行機雲の芸術。
 学校の帰りだった私はそれを別世界の出来事のようにいつまでも眺めていた。
 ・・・撃墜された西日本の戦闘機が丘の上に建つ家に直撃するまでは。
 燃える家を遠くに見つけて呆然とする私を戦果確認の為に舞い降りた東日本の戦闘機が掠めて飛んでいく。
 その戦闘機は翼端を黄色く塗っていて、尾翼には黄色で13と描かれていた。
 轟音を上げて遠ざかる戦闘機は両親と家を私から奪った悪魔なのに、その姿はとても綺麗で私は何も出来ないまま、その後ろ姿を見送った。
 その戦闘機が黄色の13と呼ばれる東日本軍のエースパイロットの戦闘機であることを知ったのはそれから随分後のことだった。
 家と両親を一度に失った私はレジスタンスに拾われて、西へ、西へ逃れて西日本最後の国土、沖縄へとたどり着き、そこで空軍に志願した。
 お金なんて一銭もない私が生きていくにはそれしかなかったし、両親の敵を討つという目的もあった。
 実際、敵討ちを目的に志願している人は沢山いた。それは親であったり、娘や息子であったり、恋人だったり、千差万別だったけれど誰もが大切な人を失っていたのだ。
 だが何よりも、この戦争に勝てばお兄様にまた会えるのではないかという淡い希望があった。
 お兄様がどこに住んでいるかは分らない。それでもこの戦争が終われば東西は統一されてお兄様を探しにいくことは出来る。
 私はお兄様を取り戻すために、戦う決意を固めた。
 訓練は厳しかったけど、計器盤に貼り付けたお兄様の写真の前では弱音なんか吐けない。
 6ヶ月間の厳しい訓練に耐えた私はウイングマークを与えられ、晴れて戦闘機パイロットとして最前線に配置された。
 東日本軍の沖縄爆撃が始まったのは、それからすぐ後のことだった。


                                        
                                          
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