ACECOMBATSISTER

shattered prinsess

エースコンバットシスター シャッタードプリンセス

世界設定



 太平洋戦争
 1941年12月8日、帝国海軍の真珠湾奇襲攻撃に始まった太平洋の戦いは、ミッドウェー海戦を転機に米国の反撃が始まり、日本軍は敗北を重ね1946年5月3日、日本の無条件降伏で幕を閉じた



 レイテ沖海戦
 巨大台風アンドリューの直撃を受けたハルゼー提督の第3艦隊の空母部隊は一時的に戦力を喪失し、突入してきた栗太提督の第一遊撃部隊とハルゼー提督が引き抜いた高速戦艦部隊、及びオルデンドルフ提督の旧式戦艦部隊が激突した史上最大の海戦。
 帝国海軍は武蔵、長門を失いながらも米戦艦部隊を壊滅させ、レイテ湾突入を果たした。また、大和の砲撃でマッカーサー元帥が戦死している。これにより甚大な損害を受けたアメリカ軍のスケジュールは大幅に狂うことになった。
 


 ハンフォード事件
 1944年12月、マンハッタン計画(原爆製造計画)においてプルトニウム製造工場が置かれたハンフォード市で起きた世界初の原子力事故。
 原因は不明ながら、広範囲に死の灰が拡散し、コロンビア川が深刻なレベルの放射能汚染を受ける。マンハッタン計画は当時国家最高機密であった為に当局の対応は機密保持の為に後手に回り、3万人以上の市民が死亡、また放射線障害者は5万人を越えるなど深刻な事態に発展、マンハッタン計画は完全に頓挫した。



 坊の岬沖海戦
 沖縄へ上陸したアメリカ軍に対して敢行された特攻作戦“菊水作戦”の一部、大和を中心とする水上特攻艦隊とデイヨー提督の戦艦部隊が激闘を繰り広げた。
 ちょうど接近中だった台風により機動部隊が沖縄を離れた隙を突いた第2艦隊は航空攻撃を受けることもなく南下、夜間デイヨー提督の戦艦部隊と激突。夜間砲雷撃戦にて、大和が戦艦ウィスコンシンを初弾命中、爆沈させて始まった海戦は死闘の末に大和が駆逐艦の集中雷撃を受けて沈没、雪風以下帝国海軍残存艦艇が撤退したことで終結する。



 帝都クーデター
 1945年6月、東京で軍部強硬派によるクーデターが起きる。和平派の将校、政治家は軒並み逮捕され、和平派は壊滅。昭和天皇は建設中だった松代大本営へ拉致される。
 ポツダム宣言は黙殺され、停戦は絶望となる。
 


 日本本土決戦
 1945年8月15日、ソ連軍の石狩湾上陸をスタートとする1946年5月3日まで続いた日本本土での主として日米ソの戦い。
 アメリカ軍の南九州上陸(オリンピック作戦)は1945年9月に行われ、同年11月にはソ連軍が北海道全域を占領する。オリンピック作戦は九州山岳地帯での抵抗に遭い大幅に遅れ、逆に北海道はその平坦の地形によって順調な進撃が続いた。
 翌年1946年3月にはソ連軍は新潟に上陸、戦力が枯渇した日本軍を撃破し南下、東京を占領する。アメリカ軍がオリンピック作戦の損害の多さから関東上陸作戦を中止した。
 またソ連軍は松代大本営にも侵攻し、これを占領。軍部強硬派は戦死、もしくは自決。昭和天皇は山中を彷徨い松本まで逃れるが、燃える松本城を遠望すると自刃。
 昭和天皇自刃のラジオ放送が成されると日本軍の抵抗は消滅、臨時政権が連合軍に降伏する。しかしソ連軍は侵攻を続け、戦闘は1946年5月3日まで続く。



 日本戦争
 1950年6月に勃発した東西に分かれた日本人同士の戦争、開戦当初は東日本軍が優勢だったが、10月に国連軍が投入されると戦闘は膠着状態になる。
 1953年、スターリン死去に伴い停戦が実現した。
 これによって東西日本は完全な分断状態になる。停戦ラインは長野県を縦断する東経138度線となった。
 1980年代から東西の緊張緩和政策によって国境は一時的に開放されるが、東西冷戦が高まりに応じて1989年再び閉ざされる。



 キューバ危機
 1962年10月27日、折からインフルエンザに苦しんでいたケネディ大統領は軍部強硬派の強い要請を拒否できず、米空軍はキューバを空爆。
 空爆に対してキューバは核ミサイルによる反撃を行い、米国は焦土と化す。
 核攻撃に対する米国の報復でキューバも壊滅、しかしソ連が動かなかったことにより第3次世界大戦は回避される。
 米国の死傷者数は5000万を超え、放射線障害者は1億人に達した。
 


 ドミノ現象
 キューバ危機以降、米ドルを中心とした西側経済は崩壊。ヨーロッパ経済は大恐慌に陥り、イタリアでは共産党が政権を獲得。連鎖的な赤化ドミノが起きる。  
 これにより英仏を除いたヨーロッパ諸国は全て共産主義陣営に入る。
 1970年にドイツは共産主義政権によって統一された。
 また同年、南北朝鮮半島も共産主義政権によって統一される。



 日本国防軍
 キューバ危機以降、米軍は日本から全面撤退。独力での国防を迫られた日本政府は憲法を改正し、自衛隊を国防軍へ改組する。また東アジアの安全保障などこれまで米軍の行っていた業務の代行を求められ、次々に国防軍は海外派兵を行うことになる。
 最終的にマラッカ海峡から日本近海までのシーレーン防御を担当することになり、米軍が撤退したベトナムへの派兵など、東南アジア各国の安全保障にまで関与することになる。



 ストーンヘンジ
 正式には国防兵器1号、95式120サンチ対地対空両用磁気火薬複合加速方式半自動固定砲。射程は900キロ。1950年に東日本の首都が新潟に移転されたことから、未開発で土地が余っていた東京に設置された。
 イギリス南部の環状遺跡に形状が似ていることから名付けられた。実際、巨大なコンクリートのピザの上に360度全方位をカバーするように8つ巨大な砲塔が設置されている。
 1970年代、ソ連で始まった弾道弾防衛網“ナイト・ウオッチ”の開発に当初は東日本も参加していたがドクトリンの違いから途中で脱退。独自の弾道弾迎撃システムの構築を行う。稼動に入ったのは1998年。
 およそ20年の歳月を費やして開発したレールガンの破壊力は凄まじく、あらゆる種類の弾道ミサイル、巡航ミサイルを撃破することが可能となった。ミサイル迎撃と組み合わせた場合、迎撃率99.99パーセントに達する。
 1999年に勃発した日本戦争においては先制奇襲砲撃を行い、呉に停泊中だった空母飛龍、蒼龍を撃沈。西日本の海軍戦力の60%を消滅させている。さらに航空戦力の40%を撃破、地上戦力はただの的でしかなく、西日本軍は全く抵抗できないまま後退を余儀なくされる。
 また整備の隙をついて反撃に出たF−15J12機、F−15EJ12機の合計24機による決死隊は東日本軍最高のエースパイロットで構成された第156戦術戦闘航空団、通称“黄色中隊”の迎撃を受けて全滅、黄色中隊はその後の各戦線の火消し役としてストーンヘンジと並んで西日本軍に恐れられることになる。



 日本地図 1999年
           




 書庫へ