1945年12月30日、日曜日
ホワイトハウス 大統領執務室
合衆国大統領を務めるハリー・S・トルーマンは、国の長として習慣にしている各紙の新聞を読了してから、ばさりと机の上へ投げ捨てるように放った。
それからおもむろに立ち上がると、陽光で薄黄色くなっているカーテンの隙間にちらりと指を通し、ぼんやりとアメリカの世界を眺めた。
「連合国の一角を担う、ソビエト連邦の崩壊か……」
目に映る平和な光景とは裏腹に、トルーマンは緊張の静寂を打ち破るような声を出した。
頭を悩ます新聞記事と、補佐官や将軍からの痛々しい報告と、アメリカの苦闘や苦難の全てがその両肩に圧し掛かっていた。
ソビエト連邦だけでなく、下手すれば明日は我が身という可能性も充分あり得る戦況に、思わず体が震えそうになる。
南太平洋、北太平洋、そして現在は中部太平洋の島々までもが、日本帝国海軍によって再び奪取されつつある。
米軍初期反抗作戦の足掛かりとなったエニウェトク環礁も、日本機の爆撃を前にしてあとどれだけ持つのか、甚だ危うく儚い立場だ。
少なくとも、米海軍が攻勢に出られるような余裕はほとんどない。
沖縄戦とオーストラリア近海の戦いで大量の死傷者を出して以降、トルーマンは米海軍という存在自体に強い不信感を抱きつつあった。
それにトルーマンは、第1次世界大戦で陸軍砲兵隊として参戦していただけに、彼の考えはもともと陸軍式だ。
ルーズベルト大統領があれだけ贔屓にしていた海軍だというのに、これでは予算の無駄使いもいいところだ――と、トルーマンはただの愚痴と自覚しつつも思った。
一年間に護衛空母を120隻建造?
エセックス級空母を年間10隻?
航空機を10万機?
……まったくバカバカしくて、話し合う余地すら感じられない。
たとえいくら空母や航空機を作ろうとも、あの最悪にいまいましいジェット戦闘機とロケット弾を何とかしないことには、フライト・デッキから発艦することさえできやしないではないか。
レーダーに機影が映ったかと思えば、すでに甲板上を火の海にされているのだというだから。
それでいて、せめてロケット弾やジェット戦闘機の対処法でも分かったのかと技術将校に尋ねても、曖昧模糊とした返答が精一杯という有様だ。
……目撃証言が少なすぎて、しかもロケット弾は一瞬しか見えなくて、気づいたら命中しているんです、だと?
トルーマンは猛烈な苛立たしさを覚え、椅子に座って読もうと思っていた報告書を執務机に叩きつけた。
それこそ、お前たちの目はビー玉以下なのかと罵倒してやりたい。
科学技術の進化はどこの世界も日進月歩なはずだ。
確かに日本軍は、無雷跡に近い酸素魚雷を密かに作ったり、紙とコンニャクというわけのわからん素材で風船爆弾を作って米本土を爆撃したりと、様々な兵器を開発してはこちらを驚かせてきた。
しかしだからといって、常人には考えつかないような奇想天外で斬新な兵器ならともかく、科学的に解明できないような兵器があるものか!
VT信管もレーダーもバズーカ砲も、我が合衆国は世界最高水準の工業力と科学技術で開発し、量産し、戦闘を優位に進めてきたのではなかったのか。
それなのにどうして、日本軍のような空対空、空対地、空対艦ロケット誘導弾のひとつも開発できない?
ドイツ軍のジェット戦闘機を参考にしたこの状態でも、日本軍の最新鋭ジェット戦闘機は、世界技術レベルの半世紀から一世紀は先を行っていますだ?
軍や技術者など一部の者からは、いまの日本はきっと未来からやってきたんですとか、ひょっとしたら悪魔と契約したんじゃないでしょうか、などという非常にマヌケなことをほざくバカ者どもまで出始めている。
もう、いいかげんに泣き言を聞くのはうんざりだ。
ちまたでは祖国存亡の危機とまでささやかれつつあるこの国難を前にして、弱気な発言をする奴など必要ない。
たとえ相手が未来の日本だろうが、悪魔と契約した日本だろうが、どちらにせよ倒さないといけないことには変わりないだろうが。
その場に立ち止まって嘆いている暇があるのなら、さっさと現実を正眼に見つめ、夢と希望と明日と正義へ向かって邁進しろ!
まったくもって、先代の大統領は凄まじく厄介な仕事を残してくれたものだ。
――やはり、副大統領候補を薦められたときに、無理にでも断っておくべきだったか。
トルーマンはまた椅子に座って腕を組みながら思った。
フランクリン・D・ルーズベルト大統領が、歴代合衆国大統領としては史上初の4期連続の再選を果たしたとき、副大統領候補を誰にするかが問題となった。
ルーズベルトに次ぐ民主党の大物政治家は、ヘンリー・ウォーレスとジェイムズ・バーンズの2人だった。
前者は進歩派、後者は保守派を代表しており、どちらをとっても党内の均衡が崩れる。
ルーズベルトは民主党の票が大統領選挙で割れることを恐れて、無難なミズーリ州選出のハリー・S・トルーマン上院議員を推薦し、それが党大会で承認された、といういきさつがあった。
そう考えてみれば、人生の岐路もあそこだったのかもしれない。
副大統領候補に推されたときは一度断ったが、ルーズベルトに押しつけられるような形でやむなくしたがった。
だから、副大統領になってからも政策決定には参加していなかった。
たかが州の田舎の判事あがりが、国策などという重要な場面に出るのは身分不相応に思えたからだ。
「それなのに――副大統領になって、わずか3ヵ月で大統領だ。神よ、わたしがなにか悪いことをしたのでしょうか?」
合衆国大統領であるルーズベルトは、1945年の4月12日に脳溢血で死亡した。
まるで、沖縄戦の大敗北があまりにも衝撃的過ぎて容態が悪化し、一気にショック死したようだった。
ジョージア州、ウォーム・スプリングスの別荘で彼の最期を看取ったのは、賢夫人として誉れ高いエレノアではなく、長年の愛人のルーシだったらしいが、そんなことはどうでもよかった。
沖縄戦で米海軍が壊滅的な打撃を受け、歴史上もっとも偉大な大統領とまで称えられていたルーズベルトが急逝し、さらに東南アジアへ向けた日本軍の大反撃と、米国は未曾有の混乱状態に陥った。
一刻も早い、新しい指導者が必要だったのだ。
合衆国の法律では、現職の大統領が死ぬと、副大統領がその後任になる。
ルーズベルト一族のセオドア・ルーズベルトも、マッキンレー大統領の暗殺により、副大統領から大統領になっている。
先の理由がある通り、ハリー・S・トルーマンが副大統領に就任したのは、決して彼の力量から、というわけではなかった。
しかしトルーマンが副大統領である以上、彼は合衆国民として、大統領に就任しなくてはならない義務と使命があった。
大統領に就任した最初の閣議で、スチムソン陸軍長官から原子爆弾が近いうちに完成することを知らされた。
原爆の開発、製造についてはそれまで何も知らなかったし、聞かされてもいなかった。
しかし原爆の使用について、トルーマンはただちに決断しなければならなかった。
なぜなら合衆国の大統領は、全ての重大な案件に最終的な決断を下さなければならないからだ。
「くそっ……フォレスタルもスチムソンも、なんでもわたしに決定を求めようとする。あいつらは、ただ責任が自分の身に及ぶのを防ぎたいだけに違いない! 政治も兼務しているわたしには、軍の重大決定を即座に下せる能力も余裕もないのだ!」
またそのような重大決定をさせておきながら、あの無様な体たらくはどうしたものだ。
むざむざと米本土奥深くへの日本機侵入を許し、ロスアラモス研究所はキノコ雲と瓦礫の底に消えた。
莫大な費用と時間と人材を費やしていたマンハッタン計画は、白紙に近い状態に戻された。
当然、その辺りの警備に当たっていた基地の将校どもは全員、更迭処分のうえ再教育行きにされたが。
そしてさらに問題なのが――吐き気がしたくなるほど堕ちた海軍だ。
「あいつらは、簡単な人員輸送さえもできんのかっ!」
船体が流氷にぶつかって沈没したらしく、搬送していたドイツ科学者は全員行方不明です、という報告を電話で聞いたとき、トルーマンは受話器を台座ごと落としそうになった。
起死回生を狙ったオーストラリア近海での戦いも、戦艦3隻と無数の艦艇を引き換えに得た戦果といえば、日本帝国海軍の空母1隻を大破、恐らく沈没させたという、数少ない生存者による確信度の低い証言。
とはいえこれも、日本軍の傘下に落ちた枢軸国に流れている情報によれば、大破したまま本土に寄港して修理中らしいが。 しかも空母を指揮していたオオガミとかいう聞き覚えのない提督が一躍有名となり、最近ではここアメリカでも、色々と誇大着色された武勇伝が出回りつつある。
そしてそんな米国の苦悩をあざ笑うかのように、日本軍はさらに1個空母群を南太平洋へ寄越した。
米軍は戦力の温存を決めたため、本土決戦を主張したカーテン首相ともども、米国の支援が一切受けられなかったオーストラリアは滅ぼされた。
大拠点であるオーストラリアを失うことは、太平洋の戦力上、非常に痛かったが、あの情勢では仕方がなかったことだろう。
口惜しいことではあるが、リメンバー・パールハーバーならぬ、リメンバー・オキナワと臥薪嘗胆を唱えて戦力の回復を急ぐことしか、あのときはできなかったのだから。
「しかし、いつになったら、わがアメリカ合衆国は反撃に転じるのか……」
そのときドアが勢いよく開いて、奇麗な礼装に身を包んだ将軍が、つかつかと大統領の目の前までやってきた。
付き添うように後ろから入ってきたもう一人の将官が、陰鬱そうな表情で、開けっ放しのドアを閉める。
「大統領、いまその廊下を歩いていたとき、職員の間で流行っている悪質なデマを耳にしたのですが」
「……デマ? なんだそれは?」
一応は敬うような姿勢を見せているものの、慇懃無礼にも見えるその将軍の態度に、トルーマンはムッとしたように肩肘をついて訊いた。
こけおどしでハッタリ屋のマッカーサーといい、潜水艦乗り出身のくせに空母の優越性ばかり主張する頑固なニミッツといい、これだから職業軍人には節操がないと思った。
トルーマンの不機嫌さなど意に介さないように、前頭葉の毛髪が薄い将軍は覇気を込めて言う。
「共産帝国のソ連が降伏したことで、民主主義国家のアメリカと日本がようやく講和を結ぶとかいう、まったく現実味も話に脈絡もない、飛躍しすぎなデマです」
それを聞き、トルーマンは怪訝な表情になった。
「民主主義国家だと? あの大日本帝国がか?……ただの独裁軍事帝国だろ。どう考えてもありえんことだ。日本と講和などと……デモクラシーとファシストは結びつかないからな」
「しかし実際問題として、日本を民主主義国家と勘違いしている輩が、合衆国内にちらほらと出始めているのです。きっとそいつらは、ナチの生き残りに扇動されたか、合衆国の恩を忘れた日系人に違いないでしょうがね。ですから大統領も、次にマスコミの前で演説台に立ったときには、ぜひともそのような間違いを正すよう、国民に問いかけてくださるようにお願いします」
「マスコミの前で演説か……」
今度はどのような戦況報告を国民にすればよいのだろうか。
アリューシャン方面に進出していたアッツ・キスカ島を奪還されたことか。
それとも、とうとう降伏したソ連軍をほとんど支援しなかったのは、戦略上しょうがないという言い訳か。
大統領になってからというもの、一度としていい気分でマスコミに答えたことのないトルーマンは、演説すること自体が苦手になりつつあった。
「それで――ハップ・アーノルド、今日はそれだけのために来たわけではないのだろう?」
「ええ、今日は弱気になりつつある大統領を少し元気づけようかと思いまして、激励に参りました。それと、大統領のご意向もお聞きに」
疲れた様子を見せるトルーマン大統領の質問に、陸軍航空隊司令官のヘンリー・H・アーノルド大将は、ようやく人懐っこそうな笑みを見せた。
統合参謀長幕僚会議のメンバーであり、新型機であるB-29爆撃機を直接自分の支配下に置いた航空界きっての総帥だ。
1944年11月に元帥の階級を創設する法案が上院を通ってから、陸軍で元帥枠に入った一人だったのだが、日本本土爆撃任務の失敗により、その進級はしばらく遠のくことになってしまっている。
彼以外に陸軍で元帥枠に入った人物は、マーシャル、マッカーサー、アイゼンハワーの3人だ。
「ふん……合衆国大統領であるわたしを激励に、か。おおかた、B-29の先進基地になっていたマリアナ諸島を日本軍に奪還されたことで、なにもすることがなくて暇になっているのだろ?
まったく、1000機もの重爆撃機を数日で失いおって……あれ1機に、どれだけの国家予算が注がれていると思っているのかね? きみたちの安月給から何割か肩代わりしてくれたら非常にありがたいのだがね」
不機嫌な状態から戻っていないトルーマンが皮肉っぽく言うと、第20航空軍司令官だったアーノルド大将と、彼の後ろに立っている将官は、気にしたように眉根をピクリと跳ね上げた。
「大統領、マリアナ基地に展開していたB-29部隊は確かに全滅しましたが、いまではその傷もボーイング社と陸軍航空隊の奮迅によって完治――いえ、より屈強な爆撃飛行隊となって復活しつつあります。それに全滅した爆撃機集団も、決してムダというわけではありませんでした」
「なるほど、それはわたしも認めよう。B-29爆撃機が、電池の切れた時計より役立った点についてはな」
そう言って、トルーマンは乱雑に積み上げられていたバインダーのひとつを手に取ると、開いたままの状態で執務机の上に置いた。
開かれたページには何枚もの白黒写真が貼り付けられている。
「この写真――日付は今年のエープリル初旬だが、偵察用のB-29が上空から撮ったものだ。撮った場所は、日本の東京、大阪、神戸、名古屋といった大都市で、写真解析については素人に近しいわたしでも、そう簡単には復旧できない痛手を被っているのがわかる」
「そうですね、これらはマーチ大攻勢爆撃によって受けた空襲の被害でしょう」
第20航空軍司令官のアーノルド大将は涼しげにあいづちを打った。
マーチ大攻勢爆撃とは、1945年3月9日の東京大空襲からおよそ十日間に及ぶ日本本土大空襲作戦のことである。
マリアナ基地に展開するB-29部隊は、東京の次は12日に名古屋、13日に大阪、17日に神戸、19日に名古屋と、いずれも300機という大群で夜間焼夷弾爆撃を行っている。
このわずか十日間で、日本本土にはのべ1595機のB-29が襲来し、焼夷弾9365トンが投下された。
これは、マリアナ基地から過去3ヶ月半の間に出撃した総機数の75%と、過去3ヶ月半の間に投下された爆弾総量の3倍に相当する。
「そして、この十日間の空襲により55万万戸以上が焼き払われ、200万人以上の日本人が焼け出され、死傷者はおよそ20数万人か……」
「そうです。それに引き換え、B-29の損害はわずか22機。出撃数の2%以下で済みました。焼夷弾の効果も存分に実証されたと思います。日本人の住宅は一般にマッチ箱に等しいですから、いちど爆撃を受けたが最後、たちまち焦土と化してしまうのです」
ふんと鼻を不快気に鳴らして、ずれつつあった眼鏡を右手の人差し指と親指で正してから、トルーマンはアーノルド大将の瞳をじっと見据える。
「それで――わたしが知りたいのは、どうしてここまで主要都市を叩かれておきながら、日本軍はあそこまで最新鋭兵器を大量に開発し、攻勢に出られるのかということだ」
「それは……十日間の空襲でマリアナ基地の焼夷弾をすべて使い切ってしまったため、次の大規模焼夷弾攻勢を執行するまでの準備が、4月の初旬あたりにまでもつれこんでしまったのです。ですからその1ヶ月余りの間に、いままでどこかに温存させていた戦力を一気に放出したとしか……」
アーノルド大将が返答に窮していると、彼の後ろに控えていた将官が、ゆっくりと一歩前に進んで、無言で発言の立候補をした。
それに気づいたアーノルド大将は、トルーマンの視線から逃れるように少し横へどく。
発言を認めたというようにトルーマンが視線を向けると、アゴの張ったいかつい顔の将官は、かろうじて聞こえるぐらいの小声で語り始めた。
「大統領、わたしの考えでは、たとえ日本の大都市を叩いたとしても、そう簡単に日本の工業力は低下しません」
「ほう、なかなか興味深いことを言ってくれる。よければそのシャレた新説で、この老いた脳を覚醒させてくれないかね」
将官の話すしわがれた声が聞こえにくいため、トルーマンは頭を傾けて、その右耳を大きな丸顔の黒髪の男に向けた。 ヘビースモーカーなのか、男の口臭からは葉巻の匂いがした。
「はい、大統領。日本の軍需工場とは、広島や京都などという都市に限った局地的なものではなく、日本の家屋という家屋すべてが軍需工場なのです。スズキ家がボルトを作れば、隣家のヤマダ家はナットを作り、向かいのヤマモト家はワッシャを作り、その隣のサトウ家がバルブを作る……といった具合に、立ち並んでいる一軒一軒の家屋が、これすべて武器の製造工場なのです」
「……きみのその理論だと、日本全土を焼き払わなくては、日本を降伏させるのは難しいということになるがね。第21爆撃集団の司令官だったルメイ少将?」
顔を正対に戻して、トルーマンはマリアナ基地B-29部隊司令官を務めていたカーチス・E・ルメイの顔を見やる。
訊かれたルメイは、ずんぐりとした体躯を微塵も揺るがせず、極めて冷静に答えた。
「大統領、なにをおっしゃっているのかよくわからないのですが――わたしは、日本を石器時代に戻さないかぎり、あのチビで茶色い友人は降伏しないと申し上げたのです。幸いにも、日本の四大都市はかなり叩いたので、それが日本軍にとって足かせにはなっていると思いますが」
「しかしその過程において、多くの民間人が爆撃に巻き込まれて死ぬだろう。合衆国はナチスや日本とは違い、無差別爆撃はやらないと世界に公言しているのだからな。ソ連がフィンランドに無差別爆撃をしたときも、『わが国政府ならびに国民は、非武装市民への爆撃や低空からの機銃掃射、これらの卑劣きわまる戦争行為を全力をもって糾弾する』との声明を出している」
これ以外にコーデル・ハル国務長官も、日本軍による中国各地の都市爆撃、特に焼夷弾の使用を激しく非難している。
1944年2月13日の英米空軍による文化と歴史の町ドレスデン大空襲でも、スチムソン陸軍長官は、『わが国の政策は、敵側市民とはいえ彼らを爆撃の恐怖下においやることは認めていない』と発表していた。
それに、もしも無差別爆撃のことが合衆国内で話題にでもなったら、トルーマンとしては大統領支持率の推移も心配だった。
議会で政敵である共和党から攻撃される危険性だってある。
すると、横に退いていたアーノルド大将が、ルメイをどけてまたトルーマンの前に立った。
「大統領、わたしも対外的には、『わが航空団は、軍事目標への高高度爆撃をその任務とする。都市部への焼夷弾使用は、軍事目標への限定爆撃という伝統的理想に相反する』というようなことを言いました。わたしは大統領と似たように、政治と軍事の接点に立つ位置にいますからね。政治家としても振舞う以上、建前の奇麗事は非常に大事です」
アーノルド大将は机の上に両手を置いて語った。
「しかし、大統領の前ですから胸の内を言いますが――戦争とはもとより破壊的で、非人間的かつ無慈悲なものです。
手加減する必要はまったくありません。またそうでなくとも、わが合衆国軍兵士は、ドイツ兵士に対するのとは違い、日本人には自然と憎悪が湧いてくるのです。茶色い友人どもがバターンや泰緬鉄道で、わが国の兵士になにをしたのか、まさか忘れたわけではないでしょう?」
返答に詰まるトルーマンの隙を突くように、ルメイも賛同の意を表明する。
「そもそも残虐さとは、わたしたち本来の人間性ではなく、戦争そのものに帰せられるべきです。日本では、女も子供も軍需産業に携わっているそうですから、やつらを殲滅してどこに問題がありますか? そして国家が希望する任務を全うするためには、だれもが残虐となる必要があります。
終戦して何十年も経てば、今次大戦も徐々に美化されていくかもしれませんし、やつらとも酒を酌み交わしているかもしれません。しかしこの瞬間は、われわれは奇麗事より勝利を優先しなくてはならない立場にあるのです」
「――そう、きみたちの言うとおり、政治家には建前と奇麗事が大切で、軍人には戦争での勝利が大切だ。よくも、悪くもな」
政治の世界を詳しく知らない軍人に好き勝手言われるのも辛いのか、トルーマンは反論するように語気を強めて言った。
「しかしあいにくと、わたしは複雑な性格の前大統領と違い、思うことを腹の中に収めておくことができない性格でね」
トルーマンは人に関する好き嫌いもはっきりと言うタイプだ。
だからこそ、「好人物ではあるが政治家や外交家にはむかない」と暗にささやかれてもいる。
「したがって、ふと思っていたことを率直に質問したいのだが」
腕を口元で組み、ジャクソン郡裁判所の裁判長を10年間務めた経験のあるトルーマンは、被告に問いかける判事のような視線を浮かべた。
「アーノルド大将もルメイ少将も、ソ連のイルクーツクで戦死したというフィル・アルテミス少将は覚えているな?」
2人の無表情な眼がかすかに揺れ動いたのを、トルーマンは見逃さなかった。
「大統領、アルテミス少将とこれまでの話にどのような関係が――」
「いいから、覚えているのか覚えていないのか、早く答えたまえ。いや、2人に訊くのは失敬かもしれんがね。なにせ、かれは陸軍航空隊に務める優秀な将官だったからな。またそれだけに、かれのような人材を失ったのは、陸軍としても合衆国としても非常に残念なことだ」
話を逸らそうとしたルメイを押さえ込み、トルーマンは淡々とした表情でアーノルド大将を見つめる。
そしてこれ見よがしに、さきほど読んでいた新聞に載っている、フィル・アルテミス少将の写真記事をちらつかせた。
「アーノルド大将、きみもそう思っているのだろう? なにせ、きみはソ連への支援として送る戦略専門家は誰がよいかと訊かれたときの会議で、アルテミス少将を強く推薦したからね。そんな彼が死んだことで、かなりの罪悪感も覚えていることだろう。
それによくよく思い出してみれば、合衆国に航空機や兵隊を送る余裕のない以上、ソ連には日本軍の航空機を偵察する者を送ればいいと提案したのも、確かきみだったな?」
「……はい。神聖日本軍と戦って生き残れた者が少なかったため、あのときはとにかく日本軍の情報を集める必要があったのです。フィル・アルテミス少将は、わたしが自信と誇りを持って送り出すことのできる部下でした。
そのような彼が日本軍による拷問の末、なぶり殺されたことは、陸軍航空隊のみならず、わたし個人としてもたとえようのない喪失感と深い憤りを覚えます」
四角いレンズを通した向こうにあるトルーマンの目が、きらりと光った。
「そう、わたしもきみの意見には大いに賛同する。かれと話した時間は決して多くないが、とても優しくて愛国心も強く、実に紳士的な人物だった。娘さんもとても可愛らしいお嬢さんでな、そのような一家を破滅に追いやった野蛮で無慈悲な日本軍には、しかるべき処罰をくださねばならんと思う」
トルーマンはそこで一息つき、不意打ちするように、そっと付け加えた。
「まったくもってそう思う――米陸軍航空隊による枢軸国への無差別爆撃に公然と反対し、周りにも強く呼びかけていたという、アルテミス少将を殺すような日本軍にはな」
アーノルド大将からわざとらしい悲しみの表情が消え、一方の眉がかすかに上がった。彼の横にいるルメイも似たような反応を一瞬だけ見せた。
トルーマンはそれほど権謀術数に長けているわけではないが、しかし合衆国大統領として、心理的な戦いで彼ら軍人に負ける気はなかった。
「大統領……それは、どういった意味でしょうか?」
「ん? なにか問題にするような発言でもあったかね?」
そ知らぬ顔で訊くと、アーノルド大将は弱々しい呻き声を上げただけで押し黙った。
トルーマンは、内心でほくそ笑みながら無表情を装って言う。
「しかし、フィル・アルテミス少将が死んだことは、必ずしも合衆国に悪い要素ばかりを運びこんだわけではない。不謹慎な話かもしれんが、かれが死んだことによって国民の対日感情は確実に上がった」
日本軍もモスクワで大空襲を執行したらしいし、国内で無差別爆撃に異を唱える者も少なくなりつつあるから、アーノルドたちも行動しやすくなっただろう。
「B-29を製造するボーイング社や――最近になって、こんどはノースロップ社を吸収したという
トルーマンが語り続けている間、アーノルド大将とルメイは口を開こうとしない。
まるで、なにかの拍子で失言してしまうことを恐れるかのように、沈黙の姿勢に移っている。
「そういえば、DS社の若き幹部であるブレント・フォーロング。かれは幸いにも無事に帰国したそうだな。ちょっと小耳に挟んだところによると、かれときみたち二人は、それなりに親交があったそうだが? 新開発されている航空機についてでも語り合っているのかね」
「ええ……まあ、それよりも大統領、この間から議論している件についてお聞きしたいのですが」
アーノルド大将が萎れたような口調で話を逸らす様を見て、トルーマンは溜め込んでいた苛立ちが少しでも払拭された気分になった。
これでなんとか、彼ら軍人を前にして、合衆国大統領としての畏敬と尊厳は護り通せたと思う。
顔にしわを寄せたアーノルド大将とルメイの表情の裏には、なにか陰謀めいたものを感じさせるが、胸の内がすっきりしたトルーマンは、その件についてそれ以上の言及はしなかった。
「この間から議論しているのというと――空軍の独立化と、三軍を統率する
この他にも、国家安全保障法の制定や、総合的な情報収集を扱う中央情報局、国家安全保障担当の主要担当閣僚による国家安全保障会議の創設も、重要議題として挙がっている。
これらの多くは、陸軍が常に主張してきたことがらだった。
「イエス、大統領。われわれ陸軍航空隊としても、いまの組織機構はムダが多い上に動きづらくてしょうがないのです。これでは、日本軍が行っている
「海軍か……あれは前大統領の悪癖によって自惚れてしまっている。それが強く証明されたのが、沖縄戦の悪夢だよ。
おかげで、陸軍将兵の多くも無駄死にしてしまった。まったく、あのときは口うるさいマスコミに対処するのに苦慮したものだ」
そのときのいまいましい体験を思い出したトルーマンは、体をぶるっと震わせた。
海軍次官を8年間務めたルーズベルト大統領の海軍びいきは有名だが、陸軍砲兵少佐あがりのトルーマンは、もとから海軍をあまり好まなかった。
というより、ルーズベルトの海軍行政への知悉ちしつぶりは、ほとんど異常にさえ思っていた。
お気に入りだけを枢要ポストにつけるやり方など、もはや宮廷政治と言ってよい。
とはいえ海軍長官と陸軍長官に、あえて政敵である共和党のノックスとスチムソンを据えたのは、ルーズベルトならではの力量でもあるだろうが。
「前大統領ならば、わざわざこのような組織体制を作り上げなくとも、単身で陸海軍を統御できただろう。しかし、わたしにそのような力があるとは自他ともに思ってはいない。それに、陸海軍の確執による予算のムダ使いは、わたしが上院議員だったときから問題視していたことだ。よって、たとえ海軍側の反対を強引に押し切る形になろうとも、わたしは三軍の統合化を強く推し進めるつもりでいる」
それを聞き、アーノルド大将は喜色満面という表情になる。
「ありがとうございます。われわれ陸軍も、影ながら大統領を支援させていただきます。三軍の統合化を進めるに際しては、海軍作戦部長であるキング長官などの強い反発もあると予想されますが……」
作戦部長と合衆国艦隊司令長官を兼ねているアーネスト・J・キング元帥の名前が挙がると、トルーマンは厄介な奴を思い出したという顔になる。
そういえば、キングもルーズベルトにその力量を買われた奴だった。
戦略家としては素晴らしい才能と実行力を持っているのかもしれないが、海軍長官のフォレスタルに嫌われ、英海軍首脳ともしょっちゅう対立するあいつは頭痛の元だ。
もう歳も65を越えるし、戦争が終わればすぐにでも退役するだろうが、トルーマンとしてはそうおいそれと更迭するわけにいかないのが、哀しきかな米海軍の現状と戦況でもある。
「キングはコチコチの職業軍人で、古色蒼然の甲殻類みたいなやつだ。まさしく生きている化石、シーラカンスだよ。しかしその火成岩のような意思と思考のおかげで、あいつはハワイ防衛に大忙しのはずだ。海軍自体も、注意はほとんど太平洋に向いているだろう」
「ハワイですか……日本海軍は、早ければ来年の春を待たずして襲来するだろうとの噂まで立っています。もしもあそこを陥落させられれば、われわれは太平洋における制海制空の両権を失うことになります。陸軍も、完全に大陸へと引き篭もらざるをえないでしょう。B-29の先進基地もなくなります」
いままで黙っていたルメイの呟きに、トルーマンは白目を向けて睨みつける。
「これ以上、婉曲的かつ抽象的に言うのは止めたまえ、ルメイ少将。はっきり言おう。軍の最高司令官にあるまじき発言となるが、わたしはハワイが日本帝国海軍の傘下に落ちるのは避けられないと思っている。きみたちも内心そう思っているのだろう? 一部からは、海軍はまだ温存策を続けるべきだという情けない意見も挙がっているしな」
大統領の詰問に、アーノルド大将は肩をすくめ、薄く笑うだけだった。
「大統領、たとえ海軍が腰抜けばかりになったとしても、たとえ勝ち目の薄い強敵が相手だとしても、わたしたち陸軍はハワイを見捨てるなどとは絶対に言いません。そもそも戦う以前から負けを考えるなど、軍人としては失格の烙印を押されますから」
陸軍航空隊司令官の決意を聞き、トルーマンは礼装を着ている2人の将軍を見つめた。
軍人とは、本当に難儀な職だなと思う。税金で国が雇っているからには、彼らには、この戦争で何としてでも勝利しなければならない義務がある。
だからといって、軍がむき出しになってしまえばそれも危険だ。
その国が抱えた軍事力は、つねに良識ある政治のコントロールが必要であり、その豊かで弾力性のある政治力は、何よりも国民の世論によって培われ、支えられなければならない。
と同時に、言論人の責任は極めて重大であるのだが――しかし、この国難に対処するための合衆国大統領には、元雑貨店主人などではなく、生粋の軍人の方がいいのかもしれない。
戦線も外交も順調に推移しているのなら問題は少なかったろうが、こうもひっきりなしに重大な決断を迫られては、とても身が持ちそうにないし、適切な判断を下し続けるのも難しい。
おそらく国民も、遅かれ早かれそれに気づくことだろう。
トルーマンは堅い表情で言った。
「たしかに、きみの言うとおりだ、ハップ・アーノルド。だから職業軍人のキングも、いまごろはニミッツにハワイでの徹底抗戦を指示しているだろう」